体験者インタビュー集
vol.17:
桑田まどかさん / 1986年生まれ
2024年8月に「あわ居別棟」に1泊2日滞在
-あわ居別棟にお泊りいただいてから約5ヶ月が経過しますが、まずは当時の桑田さんの状況やご利用の背景などについて教えていただけますか?
あわ居さんを知ったのは、ヴィーダガーデンが主催する「いとしろ暮らし開きの会(*1)」に参加するにあたって、石徹白で宿泊できる場所を探したことがきっかけです。今、私は、淡路島に家族で移住することが現実的になってきているのですが、あの時は移住について、「具体的に考えていかないと…」とか「何からはじめようかなぁ」と考えているような段階でした。そういうのをイメージするという意味で、石徹白に行き、「いとしろ暮らし開きの会」に参加したいなと。実際に田舎に移住された方、土地に根差した暮らしをされている方がどういうふうに暮らしているかをイメージできないと、前に進めないところがあったので、そういう方との出会いも欲しかったし、暮らし方とかスタンスとか、そういうところを知りたかったというところがありました。そうしたなかで、石徹白で宿泊場所を探していたら、あわ居さんのことを知って。ホームページを見て、岩瀬さんたちも移住されてきたということが書かれていたし、とりあえずあわ居に「行ってみたい」「泊まってみたい」と思い、利用させていただきました。私は人に興味を抱くところがあるので、どういう人たちがどういう想いで、そこに場所をひらいたり、そこで活動をしているんだろうと、そういう部分が気になったところも大きかったですね。
-あわ居別棟の滞在は1泊2日でしたが、当日はお手紙をお部屋に書き残してくださったり、その後のメールのやりとりでも、「あわ居さんでの時間は、ほんとうにすべてをのこしておきたいほど今もわたしの心と記憶と感覚に刻まれています」というお言葉を頂いたりもしました。1泊2日の時間の中で印象的だったことについて教えていただけますか?
一番は「暮らし方を学んだ」っていうところですね。そこのイメージがすごくできました。別棟に入って、まず空間とかインテリアとかが「素敵!」っていうところもあったんですけど、なんていうか、宿に来たっていうよりも、ちゃんと生活する場所に来たっていうか、なんか「お家?」みたいな、そういう感じがありました。それで、別棟のキッチン道具を見たり触ったりしながら、普段暮らしている家とか、そこに溢れているモノを想い出して……「あ、これだけあれば十分なんだ」っていうことを思ったりしたんですよね。自分に必要なモノとか、暮らし方自体も、実はもっとシンプルで良いのかもしれないと……もしかしたら、その時の私は移住に対する不安もあったから、いろんな情報を得たいとか、いろんな人と出会いたいとか……家にモノもあふれていたのかな。なんか必要なモノがわからなくなっていた感じはあったのかなっていうのは感じましたね。
それで娘と1泊2日の時間を過ごすなかで、自然が周りにあるからこそ、周りにあるもので遊ぶとか、そもそも自然があれば何もいらない、みたいなこともすごく感じたんです。暮らすように生きるというか、暮らし方が生き方だなぁっていうのを、「いとしろ暮らし開きの会」でも感じたし、あわ居さんの空間とか時間でも感じた。山とか川とかが周りにあるということ、それは(逆に言えば)それしかないということなんだけれど、でもそれによってありのままを楽しめたところがありました。自分もそうですし、娘を見ていてもそう思いました。あるもので楽しむ。そこにおもちゃがあったりとか、テレビがあったりとかすると、それを使う、それで遊ぶという選択肢が生まれるわけですが、そうじゃなくて、ただ川に入るとか、花を触ってみるとか……そういうことが娘にも起きて、そういう姿は日常ではなかなか見られない。だから、おもちゃとかがなくても、それはそれで成り立つんだっていうことを感じて……なんていうんですかね、なんにもなくても、自然があればそれがそこに居る理由になるんだなぁっていうのを感じました。暮らしに必要なものを知ったなぁという感じ。
朝は、朝食キット(*2)を準備していただいたじゃないですか。あれ、めっちゃ感動して(笑)。なんていうんだろう……宿で食べる朝食って、普通は出来たもの、既に調理されたものを出されるっていうイメージがあるんですが、あわ居別棟は(キッチンで)自分で調理をする形態で。それがすごく良くて。非日常なんだけれど、違う日常というか。あわ居のガイドブック『あわ居ー〈異〉と出遭う場所ー』の中にも「異日常」という言葉がでてきましたけど、その「異日常」をまさに感じましたね。朝ご飯を娘と食べながら、でもいつもよりも良いキッチンの道具と食材と。コーヒーとかもちゃんと自分でゴリゴリ(=豆を挽く)できるし……なんていうんですかね、でもとにかく特別な時間でした。
-なるほど。朝食をつくるとか、コーヒーの豆を挽くとかって、日常でも当たり前のようにする行為だと思います。だから、「朝食をつくる」「コーヒーの豆を挽く」っていう言葉だけみれば、別棟でしていたことは、日常でしていることと変わらないわけですよね……でもそこになんらか違いというか、そういうものがあってということなのでしょうか……?
なんですかね……不思議なんですよね、同じことをしているんだけど、そこでの感じ方とか、自分の満たされている感覚とかが全然違っていて。時間の流れ方も違っていて……でも今、「何が違っていたのかなぁ」って振り返ってみると……選択の仕方なのかなと。たとえば、いつもの暮らしの中だと、「朝だから朝ご飯を食べなきゃいけない」とか「いつもコーヒー飲んでるからコーヒー飲もう」みたいな感じで、選ぶことに意識を置いていないというか。それは誰に決められたわけでもなく、自分が決めたある程度のルーティーンがあるなかで、していることだと思います。
でもあわ居別棟に居る時は、娘は幼稚園に行かなくて良いし、私も仕事をしなきゃいけないっていうことがなかったので、そこの部分で、日常との前提の違いがそもそもあったという部分がまずはあり……そのなかで朝ご飯を作る場合で言えば、「食べなきゃいけないからつくる」ではなくて、無条件に理由もなく「作りたい!」みたいな感じでした。コーヒーに関しても、自分の家にはない道具だったという部分も多少あったとは思うんですけど、「これを使ってコーヒーを飲みたい!」って思ったんですよね……。
最近、自分自身が考えていることで、例えばビジネスとかお仕事だと、理由とか目的ってすごく求められるじゃないですか……でもそういうものがなくても選択できることって、実はすごいことなのかなぁって。直観とかフィーリングと言われるものとか、「なんとなく良いから」みたいな。誰かに「なんでそれをするの?」って聞かれても、「なんとなく」とか「好きだから」って答えるのって、一見何も考えていないっていう風に見えてしまうと思います。でも逆に言うと、そうやって選択できない何かしらの制限があるというか……いつもの自分のやっていることに囚われたり。世間にある「普通」とか……。
でも別棟では「作りたいから作る」とか「食べたいから食べる」みたいな感じだったんです……なんていうんですかね、日常でモノとか情報があればあるほど、内側から引き出されるものが減っているのかなぁっていうことを、ちょっと思いましたね。さっきの娘の話ではないですが、おもちゃがあれば、おもちゃがあるからそれで遊ぶ、ということになるわけで。でもおもちゃがなくて、遊ぶものがないってなった方が、「じゃあ何で遊ぼうかな」ってなると思うんですよね。そうすると、花を触ったり、草をむしったりし始めるわけですよ。私自身もですが娘を見てても、そういう違いを感じたので。そこが一番違ったかなぁと。
-となると、日常は選んでいるようでいて、実は選んでいない、みたいな話になるのでしょうか……。
そんな気はします。時間に追われていたり、妻であり、ママでありみたいな役割を背負ってやっていたりすると、「妻だからこうしなきゃいけない」とか「ママだからこうしなきゃいけない」みたいなことが、誰しも少なからずあると思うんですよ。そういうものから一旦おりた状態で別棟では過ごせた、暮らせたっていう感じ。
-それはだんだんとそういう状態に移行していった感じなのでしょうか。それともあるタイミングで切り替わったところがあった感じなのでしょうか……。
そうですね……どちらかといえば、自然にというか、段々とそうなっていったんだと思います。私自身が、日々の生活の中で気づけないことに気づかされたという感覚が、別棟ではあったわけですが……それは私自身が気づけていないところで、生活のなかで窮屈になっている部分があったりとか、気づけないところで悩んでいることがあったりとか、何かに囚われながら過ごしていたこととか……そういうのに気づいてスッとした感じがありました。
私は仕事のなかでカウンセラーという形で、人の悩みとか迷いについて日々お聴きしているんですが、顕在化している悩みって自分で認識しているのでわかりやすいというか。でも、認識までまだ至っていない、「なんかよくわからないけれど、このままではだめな気がする」とか、「なんかわからないけれど、モヤモヤする、イライラする」みたいな感覚が一方にはあって。そういうものはすごく大事だと私自身は思っています。それは自分でも気づけていないけれど、内側からほんらいの価値観とか、本音が生まれかけているという状態なのかなって私は思うんです。ただ、そこに悩む方が多いというか、わからないことに悩む。それでそのわからないことをネガティブに捉えると、苦しかったり、もどかしかったりするから、はやく解決したいというふうになって、相談に来られる方が多いんです。
そういう方とお話しする機会、そういう状況にある方と接する機会をお仕事を通して私自身が頂いているからこそ思うのは、自分が「なんかこれが良いから選ぶ」とか「理由もなくそちらに進んでいけることができる」人って、すごく自分の感覚を信じられているのかなということです。根拠なく自分を信じられるというか。だから、そういうところまで達せると、周りの目が気にならなくなったり、他者とかモノとか環境にコントロールされない生き方ができるのかなぁみたいなことを、あの時期も思っていたんです。
そう考えたときに、あわ居さんの時間を通して「なんか良いな」「なんかやりたいな」みたいな感覚が生まれてきたのは、自分でもうまく言葉に出来なかったけれど、「本当はこういうことを大事にしたいんだよ」「本当はこういうことをしたいんだよ」っていうことに気づかさせてもらうきっかけだったのかなぁと。内側から生まれはじめている価値観というか。そしてそこを大事にして生きていく一つの手段が、私にとっては移住なんだと思うんですよね。
「なんのために移住するの?」ってよく聞かれることが多いんですけど、だいたい「なんとなく」って私は答えるんですよ。なんか理由を持ちたくないというか。そこで理由を明確に言語化してしまった時に、そこにある曖昧な部分に、自分で蓋をしてしまう感じがするんです。でも世間的には、ビジョンや目的があった方が良いと言われるし、もちろんそれは大事だとは思うんですけど……私は仕事の方が、まぁまぁそっちのビジネスチックな考え方で仕事をしているので。何を目的にどんな効果を出すのかとか……マネージャーもやっているので、部下にそういうことを教える仕事もしていて。だから仕事では完全にそっちの頭なんです。だからこそ、素の自分ってなった時に、そことは逆行しているんですよね。自分の中にある「曖昧で良いじゃん」っていうところが、仕事の時はまったくない。けれど、暮らしとか生き方ってなった時、たぶんわたしはそっちなんですよ。そういうのを大事にしたいんだなぁっていうのを、気づかせてもらえた別棟での時間だったなぁって。
-普段使っている判断基準というものがひとつあったとして、そこではわりと、合理性とか論理性重視になっていて。一方で、先ほど「素の自分」というお言葉がありましたけど、それはたぶん「なんか良いなぁ」とか「理由も目的もなく」みたいなところとおそらくは繋がってくるものですよね。そして後者の部分が別棟で出てきて。そういうものがあるんだと自覚できたことが、その後の淡路島への移住決断への、なんらかの後押しになった部分はあったりするのでしょうか。
そこは、ありますね。淡路島は、最初のはじまりから、夫婦共に「なんとなく住みたいね」という感じだったんです。私は旅行先でそこに住みたいと思うことはほとんどないんですが、でも淡路島は憧れというか、理想というか。一番最初に淡路島に行ったのが、2022年の7月だったと思うのですが、それで次の年にも行こうねって話していたなかで、私と娘が体調を崩してしまって、2023年の7月くらいに主人だけで行ったということがあったんです。ただ、よくよく考えると娘ももうすぐ小学校一年生になるので、タイミング的に、「2025年に行ったほうが良いのでは?」という話が出始めていて。で、そういうときに普段の私のビジネス脳がはたらくわけで、「いや、でも何のために?」みたいな(笑)。「淡路島行って、何するんだっけ?」みたいな(笑)。そこが入り込んできた時に……あわ居さんに行った後とか、(移住を決めた)今みたいに、ナチュラルに考えることができていない頃の私は、移住することに、何かすごく目的を定めようとしていたというか、そんな感じがしますね。でもやっぱりどれだけ考えても「なんとなく」でしかなく……でも最終的には、感覚的に「なんとなく」で、人生の大きな決断をする時があっても良いんじゃないかと思うようになりました。あまり決めすぎないようにして、「行きたいから行く」っていう選択を家族ですることも一つの経験じゃないかなぁって思うようになったので。
それはあわ居別棟滞在中に、あわ居のご夫婦と立ち話している時も感じましたし、「いとしろ暮らし開きの会」で主催者の加藤さんたちとお話している時にも……もちろん充実はされているけれど、暮らすなかでの悩みがあるんだなぁということも同時に感じたんですよね。それでも、自分たちが良いと思ったことを信じて選択して、なんとか暮らしているっていう感じが……なんかこういう生き方をしたいなぁと。淡路島の移住者の方も含めて、自分の感覚を信じて進んでいる方が多いなぁと。それは根拠があるとか、成果が見込めるかとか、そういうことではなくて……でもそこで自分もやってみたいっていう……だから移住と、別棟での体験はそういう意味でつながっているのかなとは思いますね。
-なるほど。今お話をうかがいながらあらためて思ったのが、根拠のなさとか、目的がないのに、そこで決断すること、自分の感覚だけを信じた決断というのは多くの場合、恐怖を伴うのかなということでした。その意味で、ある種、やけくそというか、「いってやれー」みたいなところが、桑田さんの中で出てきたところもあったりするのでしょうか。
そうですね……わたしは個人事業主として、フリーランスとして仕事をしているんですけど、業務委託ではありつつも、ほぼひとつの会社との関わりで仕事をしていて。完全リモートではあるし、そこはすごく良い環境ではあるんですが、でもどうあがいてもそこでは「会社としての桑田まどか」なので。だから個人として、自分で何かしたいなぁというのは、フリーランスになってからも、ずっと自分の中にあって。それは大きなサービスを打ち出したいとか、そういうことではなく、桑田まどかという人間として、世の中に何ができるんだろうって。そういうことをずっと考えながら、過ごしていた状況がまずありました。
そこで、今まで人生を振り返ってみると、何かにチャンレンジする時は、一通りまずは勉強をして、そこにチャンレンジしたりとか、資格を取ってカウンセラーになるとか。まぁまぁ私はそっちのタイプというか。私はウェディングの仕事をしていた期間が長いのですが、ウェディングって天井がなくて、最上志向みたいなものがめちゃくちゃ強い人たちの集まりなんですよ。だから、そうなったときに、目的や根拠にとらわれすぎず生きている人たち、自分を信じて生きている人たちは、私にないものをすごく持っているという感覚がずっとあって。実際、そうなりたいって思っているんだけれど、信じることが怖かったり、自分を信じ切れない感じがあったりとか。(移住を決めた)今もそれはあるとは思うんですけど。
少し話は変わりますが、私はいろんな人が集まるマルシェに行くのがすごく好きで、そういうところに出店される作家さんとか職人の方って、県外からわざわざ来て、小さなろうそくとか、自分の信じたものを販売されるわけですよね。自分の極めたものを。でも自分の信じたものを極めていくのって、すごく勇気とか覚悟がいるはずなんですね。例えば周りから「そんなのやっていても……」みたいに、周りから言われたりとかもあるだろうし。でもそういうのも気にせず、自分を貫いている感じがして。そういう方の背景とかストーリーを聞くのが面白いなぁっていうのもあって、私はマルシェが好きなんです。そしてそれはたぶん、私がしたいけれど、できていないっていうところに、紐づいた感覚なんだと思うんです。
仕事での自分も自分なんだけれど、それに逆行している本来の自分みたいなものがいて。それはどっちも自分なんですけど……その本来の自分に目を向け始めているのが、まさに今なんだろうなと思っています。それで環境を変えることとかにも目が向いて……今はリモートで仕事をしているから、ボタンを押せばどこともつながるじゃないですか。でもわざわざ行かないと会えないとか、わざわざ行かないと見れないとか。食事でいえば、既にできたものを食べればそれはすごく合理的だけれど、わざわざ自分で育てて食べるとか。そういう逆行したことに価値を置きたくなったんです。
職人さんって、ただただそれが好きだから極めてやっているんだけれど、私はウェディングプランナーになるにしても、カウンセラーになるにしても、「まだまだ素人だから、ちゃんと学んでからやらなきゃ」っとか、「ある程度できるようになってから名乗ろう」とかそういうタイプだったので。「習得してから、なんかしなきゃ」って。「ある程度、世間一般よりも上のレベルになってから行動しなきゃ」みたいな。それはそれで、そういう自分も好きで、ビジネスの中でそこは鍛えられてきたわけですけど。でも、今自分にあるもので、何かやってみたいということをやるっていう……それが今までできなかったんですね、たぶん。だからこそ、不便さとか、わざわざ非効率に見えることをするとかに目が向き始めていて、そういうことに価値が置けるようになってきたのかなぁって。例えば焼き芋ってコンビニに売ってるじゃないですか。今まではそこで焼き芋を買うことに何の違和感も湧かなかった。でも焼き芋って作れるじゃないですか(笑)。そういうことに今までは何の違和感も湧かなかった。でもよくわからないですけど、そこになぜか違和感が湧くようになってきたんですよ。「いや、作れば良いよね」っていう。
-なるほど、面白いですね。少し話は戻るのですが、先ほど、目的や根拠にとらわれすぎず生きている人とか自分を信じて生きている人は、自分にはないものを持っているというようなお話をされていたと思います。けれど一方で、別棟で滞在されたときに、根拠も目的もなく、ただただ「料理したい」とか「コーヒー飲みたい」っていうのが出てきたというお話もされていて。それは言い換えれば、自分の感覚を無根拠に、理由なしに肯定したり、そこからの選択を桑田さん自身がしたということなのかなと思います。だから根拠なく選ぶとか、理由なく信じるとかっていう部分について、先ほど「自分にはない」っておっしゃったんですが、実はそもそもそういうものが、桑田さんの中にあって、それを別棟の時間に想い出したというふうにも解釈できるのかなというふうに思いました。
それでいうと、やっぱりそういうのは自分の中にもともとあったんだと思います。本当の私は、そういう感覚を大事にできる人間なんだと思うんです。けれど環境とか仕事仲間との関わりのなかで、バランスが崩れていたところがあったのかなぁ。私は定期的にコーチングとかも受けていたんですが、その時にも「できることはあるんだし、やりたいことはあるんだから、やればいいじゃん」ってずっと言われていたんですよ。「なんでやらないの?」みたいな。でもそこでは結局、自分の感覚を信じていない自分がいるから、行動にはならないわけですよ。
それで最近、仕事とは関係のない、プライベートの時間に、美濃市でプロジェクトをやることになって、そこで集客するってなった時に、今までの私であれば、「バナー作って」とか「SNSで発信しなきゃ」とか「ペルソナは?」みたいに、そっちの方から考えてしまっていたと思うんですけど。たしかに仕事脳はそこでも働いちゃう、でもそのプロジェクトの仲間は、とりあえず手書きで紙にいろいろ書いて、「ちょっと配ってくるわー」みたいな(笑)。表面的に見れば、「そんなやり方?」みたいなふうにも見えるけれど、でもそこで思ったのは、「それもありなんだ」と。その感覚というか……「そうだよね」とか「それで良いよね」みたいな……たぶんもともと私も幼い頃は、正解のないものを作る時間が好きだったんですよ。図工の時間とか。「こういうふうに作りましょう」ではなく、「好きに作って良いよ」っていう時間。あとは今で言えばドライフラワーでアイテムを作ることとか。何に使うのかもわからないし、こういうふうに作りなさいってものもないんだけれど、なんか今いいなって思える感覚の中で作ると、すっごい時間を夢中で過ごしてしまうんですよ。それは作ることだけではなく、考えることである場合もありますけど。そういう感覚というか、「そうだったなぁ」っていう感覚を、あわ居別棟でひとつ想い出して。それは娘を見ていても思いましたし。だから、そういう感覚は自分にもともとあったけれど、それを大事にする前に、目的とか根拠が……大人になるにつれて出てきて。うーん、特に今はリモートでビジネスに触れる機会が多くなってきた時に、そっちの脳が無意識に上にいってしまう。でも本当に自分が何も考えずに、無我夢中になっている時って、何の役に立つのかわからないものを作ったり、考えている時なんですよね。そこでわくわくする感覚。そういうのを、あわ居だけでなく、マルシェ行ったりとか、移住者の人とお話しするなかで、想い出してきたっていうのはあるかもしれない。
-となると、桑田さんにとってはあわ居別棟での滞在に際しては、あまり頭が働かない状態が生まれていたというところもあるのでしょうか。身体の方が先に動くというか。
そう、そうだと思います。頭が働かず、そこが優先して出てこなかったから、さっきも「素の自分」とか「本来の自分」っていう言葉を使ったんだと思います。よく必要最低限の状況になった時に、五感がはたらくって言いますけど、ほんとその感覚だったなと思います。本当は五感すべてを大事にしたいけれど、リモートでの仕事だとその全部は使われていなくて、そういう環境のなかでちょっとバランスが崩れていたところもあったのかなと。あとは資格を取りたいとかそういうことではなく、去年から精油とかアロマの勉強をし始めていて。普段使っていない嗅覚に関するものですよね、それと感情とか脳との関連にも興味を持っていた時期だったので、何もないなかで自分に湧き上がってくる感覚とか、身体がなんとなく感じていることとか、そういうことを大事にしたいってちょうど思い始めた時期でもあったなぁとも思います。
-面白いですね。そうしたなかで、2025年の3月にいよいよ淡路島に移住をされるわけですよね。そこで新しい生き方というか、桑田さんにしかできない生き方を、これから作るというか、刷新していくというか……。
そうですね、ある観点から見れば刷新かもしれないけれど、でもある観点から見れば融合とか共存なのかなと思っています。自然とかありのままに興味を持って、そういう方との出会いもあって、そちらにアンテナが向いて行って……でも人って面白いなぁと思うんですけど、やっぱり今までのビジネスの感覚というか、そういうのも私はやっぱり好きだなって思うんですよ。ただただ田舎に行って、ビジネスには触れずに、自然の営み自体を仕事にするみたいなこともできるとは思うんです。実際そういう方もいらっしゃって。でもそれは良いとか悪いではなくて、私がどういう生き方をしたいのかということを考えた時に、そこは欲張りかもしれないですけど、「両方だな」って思ったんですよ。便利なものとか、最先端にも触れながら、その逆にも触れていたい。その両方を知っていることで、私としては良いバランスだなって。だからリモートの仕事は継続しながら、淡路島での生活をしていきたいって思っていますね。それは感覚を削ぎ落したいとかではなくて、そっちの世界も知りながら、不便な暮らしとか、手間をかけることをするのが、すごく自分らしさとか自分っぽさになるのかということを思ったので。どっちも大事にしたい。今までだと8割がビジネス脳だったから、そこを半々くらいに出来れば良いのかなということは思っていますね。
聞き手:岩瀬崇(あわ居)
インタビュー実施日:2025年1月16日
(*1)「いとしろ暮らし開きの会」は、石徹白で暮らす家族《ヴィーダガーデン》が主催する企画。2024年度は、7月~12月にかけて毎月1回、各1泊2泊のスケジュールで実施された。"いのちの繋がりを感じる暮らし"をテーマに、田んぼや畑作業、旬の収穫物でごはんを作ったり、川遊びや植物をつかった手仕事など、季節に応じた豊かな時間が体験できる。
詳細:https://www.instagram.com/vidagarden_itoshiro/p/C8SwrJCypUV/?img_index=1
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