体験者インタビュー集

 

 

vol.18:

       Cさん(匿名希望) /  40代女性

2024年8月にことばが生まれる場所」を体験


 

ー「ことばが生まれる場所」にご参加いただいてから約5ヶ月が経過します。まずは当時のCさんのご自身の状況や、ご利用の背景についてお伺いできますか。

 

 

当時は、保育士を始めてから三年目の時期です。いろんな紆余曲折があって私は保育士になったわけですけど、「これで良かったのか」という迷いがあったりとか、「私の役割って何だろう?」みたいなことを考えていました。なんていうんですかね……保育士の仕事そのものっていうよりは、人の評価とか、人の言葉をどう捉えるかみたいなところに、けっこう迷いがあって。その部分に対しては、自分なりにいろんな集まりに参加してヒントを得たりはしているんですが、石徹白という普段とは全然違う場所でお話をしたり、いつもと違う人からお話を伺ったりしても良いのかなぁというところで、「ことばが生まれる場所」に参加させていただきました。

 

私には「こういうふうになって欲しい」とか「もっとこうだったら良いのにな」っていうような、人からの期待や言葉に対して、「応えなきゃ!」っていう気持ちがすごく強いところがあるんです。前職で大企業に勤めていた時もそうだったんですが、他人軸っていうんですかね……他者に評価されたいと思っている自分がいます。自分の想いで自分をブラッシュアップしたいと思っているのか、他人の想いで自分をブラッシュアップさせられているのか、わからないなぁと思っているところがある……特に人からのポジティブな言葉、例えば「しっかりしているね」「リーダーに向いているね」とか、そういうものに対して、なんだろう……嬉しさと同時に「苦しいなぁ」と思うところがあって。それで、前の大企業で、苦しいなと思っていたことを、全然違う保育園という環境でも、また繰り返しそうになっているなっているなって。保護者の方からの期待とか評価とかに対して気になるというか、モヤモヤする感じ。下手をすると誰からも何も言われていないのに、勝手に自分の評価を想像して、勝手に苦しんでいる。そういうのが、「自分の役割って何だろう?」っていう疑問にも繋がっています。役割っていうのは、仕事での役割っていう意味ではなくて、「私は何のために生きているのかな?」っていうところですね。「なんだろうなぁ、このすっきりしない感じは」って……それはもちろん今も継続しているんですが。

 

 

ーそうした背景の中で、「ことばが生まれる場所」の時間を体験していただいたわけですが、特に印象的だった場面について教えてください。

 

 

まず、「ことばが生まれる場所」の当日は、フラットな気持ちで、全部委ねようと思っていました。「こんなこと話そう」とか「あんなこと話そう」とか一切考えたり決めたりしないで、あわ居のお二人や、その環境に任せようと。それで、チェックイン前に少し時間があったので、温泉に行ったんですよね。「満天の湯(*1)」に。それで温泉に入ってすごくリフレッシュしたところがあって。無になった感じというか……ただ一方で、私が前の会社で長年一緒に働いていた、私よりも二つ年下の同僚が、その前日に亡くなったんですね。そして亡くなったということを知らせるメールを、満天の湯に居る時にはじめて読んで。なんていうか、そこで死っていうのが、真隣にきた感じがあったんです。それは同時に、生きているっていうことが、非日常的なものに感じられるタイミングだったんですよ……その後、あわ居にチェックインをして。もちろん気持ちとしてはフラットでいたわけですが、あわ居でちょっとした時にひとりになると、「あぁ彼女はもう旅立ってしまったけれど、私は今ここで話しているんだ」ということを、何度も繰り返し感じていたんですね。

 

新しく出会った人と言葉を交わして、知らない体験をするっていうことは、今私が生きているからできるんだなっていうことを、強く感じました。もちろん対話の内容も面白かったんですけど……夜の時間にわぁーっといろんな想いがこみ上げてくる時間があって……お料理もすごくおいしくて、対話もすごく楽しいというか……岩瀬さんも、美佳子さんも、言葉を選ばずにお話ししても大丈夫だっていう安心感がすごくあったので。そういうところも相まって、「生きてるんだ……」っていうのを、すごく感じたんですよね。自然があって、夏だったから虫の声もして、窓を開けていても大丈夫だし、痛いところも苦しいところもないし、言葉を認識するだけの能力もあるし……なんて贅沢な時間なんだろうって。こういう時間が当たり前じゃないというか、亡くなってしまった友人には、こういう時間は今日はないんだっていうのを……それは悲しいというよりは、なんかこう、時間とか生きていることそのものみたいなものをすごく感じたんですよね。もちろん言葉のやりとりもすごく面白かったですけど、それよりはもっと感覚的なところだったというか……。

 

あ、でも対話の部分で言えば、私は子どもの身体を見ながら、子どもが萎縮している様子とか家族との関わり方を感じ取るところがあるんです、みたいな話をした時に、それは「僕にはないものです」って岩瀬さんがおっしゃって……そこから逆に、自分にはそういう特性があるのかなぁって思ったりもして……それは「ある」っていうよりは、そうなってきたものなんですよね。普段、瞑想やタイの古式マッサージなどのボディワークを習っているんですが、人の身体の構造を学んだり、どうやって人の身体に触れていくのかっていうところを通して、人の考え方とか生き方を学んでいくというか、想い出していっているところがあります。だからこそ、子どもたちの身体に触れるっていうことを大事にしているし、身体を通してその人の想いとか生活背景だったりを感じることができるようになってきた。そういうことが自分にもできるっていうことを、段々と想い出してきた。だから、岩瀬さんに「僕にはないものです」って言葉をもらった時に、自分の中でそのことを改めて自覚できたというか。普段、一緒にいない人からの言葉っていうのは印象的というか……自分の中にあるもの、自分の中にある言葉を整理するきっかけになったと思います。

 

 

ーなるほど。「僕にはないものです」ってお伝えしたのは、逆に言えば、そこにCさん独特の切り取り方というか、見方というか、そういうものが感じられたというところがありました。それは言い換えれば、Cさんの「長所」なのかなという気もしたのですが、そのあたりの自覚と言いますか、そういったところは……。

 

 

そうそう、自覚はなかったです。そうですね……岩瀬さんとお話をするまで「私はこういうふうに子どもを捉えている」「子どもの動きを見て、心情を捉えることをしているんだよ」ということを言葉にすることはありませんでした。みんなも、姿勢とかって見るともなく見て、感じている気もするので。だから、それが自分の長所だって思っていなかったというところもある。それをあえて言葉にして、「私、こんなことわかっているんだぞ」って言うのもなんだかなぁって思っていたところもありますね。知ったかぶりになっちゃう感じが自分でするのかな。「こんな私すごいでしょ」って感じになっちゃうのが嫌というか、恥ずかしいところはあったかも……もちろん、そういうことを他人の前で話すということはその後もしていないですけど、ただ自分の中での整理ができたところは大きかったですね。「自分にはそういうところがあるかも」というか。無意識だったものが意識になってきたというか。だから何かが変わったというわけではないんですけど、でも「人」の捉え方が「岩瀬さんとは違うんだな」という感じで、自覚できたところはありました。

 

子どもって特にですけど、言葉ではなかなか伝えられないものがあるなかで、どうやってこども達を捉えていくのかっていうのは、保育士の仕事の中で大きな部分だと思うんです。だからこそ、言葉じゃないところからも、人のことを探ろうとする、知ろうとするところが自分にはあるということを自覚して……安心したという感じですかね。そういう自分で良かったなというか、そこが自分はできているんだなって。

 

 

ー「安心した」というのは……。

 

 

あわ居さんにお邪魔したあたりからずっとなんですけど、私はほんとに自分に自信がないというか、モヤモヤし続けていて。人からどう思われているかっていうところで、ぐらぐらぐらぐらしている。あわ居さんに行ったからといって、すっきりしたっていうこともなくって。それでも最近わかってきたのは、「私は正解を探している」っていうことです。生き方とか考え方には正解があって、「私は正解通りなのだろうか?」って、不安に思っていることが、最近わかり始めてきたんです。生き方とか考え方に正解なんてないはずなのに……正解がないのにそれを探そうとしているから苦しいわけですけど。あわ居さんに行った頃も、「これは正解なんだろうか?」ってずっと思っていたと思います。だから、人の捉え方にせよ、なんにせよ、あわ居さんでお話ししたことって、すべて不安についての話だったと思うんですよね。「こういう生き方とか、人の捉え方で大丈夫なんだろうか?」っていう不安。それで「大丈夫なんだろうか?」の根っこには、「他人からどう思われるのか」とか「嫌われたくない」みたいなところがあって……「人に良く思われた病」みたいなものがすごくて……そういうところから考えた時に、あわ居さんで頂いた言葉の大半は、安心できるもので、私が私で良かったと思えたんです。美佳子さんともお話しをしていても、すごい安心感だったんですよね。

 

その安心感が何だったんだろうってことは、最近になってわかってきて。たぶんそれは、「きっとどんな私でも受け入れてもらえるだろう」とか「きっとどんな言葉でも汲み取ってくれるんだろう」っていう安心感なのかなと。そういうものがお二人からは感じられた。その時の私は、というか今もそうですけど、「こんなこと言ったらどう思われるだろう」とか「こんな考え方していて良いのだろうか」とか……良い/悪いの二元論に陥っているところがあるので。そういうことを感じることなく、安心していられる時間があわ居の時間でした。それで、帰ってきてからも相変わらず不安ではあったんですが、安心していられる場がこの世にある、そういう人たちがいるっていうこと自体が、お守りになったみたいなところがありました、すごく。

 

例えば、さっき少し触れた、私がどのように人を捉えているかみたいな話って、人を選ぶというか、ともすると宗教じみてしまうというか、スピリチュアルな世界に行ってしまうような気がしています。それも含めて、自分の内面を真に自分の言葉で表現しようとした時に、「なんかこの人、向こう側に行っているのかな?」みたいな感じに捉えられると嫌だなぁというか、怖いなぁというか。だからこそ、あんまり話さないんですよね。表面的な部分は話したりしますけど。話しても、「ふーん」ってなっちゃったりとか。それはそれまでの経験とか向き合い方とか、関心とかいろんな背景によるとは思うんですけど。そういう話をしたことで、「なんか変わったこと言ってる……」って思われるのが不安だという気持ちが先に立ってしまって。私がそこで何を言おうとしているか、そこを聞いてもらえるかどうかは、人によるんですよね。

 

 

ーそのように捉える他者の目線というか、社会的な傾向というか、そうしたものは確かにありますよね。でも一方で、Cさんご自身は、ご自身の主観とか関心とか、捉え方とかを、ただ単にお話しされているだけとも捉えられると思います。それで僕らとしては後者の形でしか、それを受け取らなかったというか。

 

 

そうなんですよ。「ただそれだけ」って捉えて欲しいなぁって。私としては「ただそういうふうに思っているだけ」って感じなんです。ただ一方で、ともすると、「なんかすごいね」みたいな感じになっちゃうこともあって。「それもなんかなぁ」という部分もあるんですよね。変わった人って思われるのも嫌ですけど、素晴らしいことを考えている人って思われるのも、なんか……こういうのもたぶん、不安に紐づいていると思うんですけど。「優しいね」とか「すごいね」とか「そんな考え方ができるなんて」みたいな反応をされることに、自分が認識している自分とのギャップがあって。もどかしいというか。「へぇーそうなんだね」って返して欲しいだけの時がある。「そうなんだね」って、ただただわかって欲しいのかなぁ……「それはただただそれです」みたいな。そういう意味で、あわ居さんにいる間は、「そうなんですね」って感じだったので、本当に心地よかった。

 

 

ーその他に何か印象的だった場面や出来事などはありましたか?

 

 

これは岩瀬さんたちとの直接のやりとりの話ではないんですけど、二日目の朝に、あわ居さんの本棚にあった竹内敏晴さんの『思想する「からだ」』を読んだんです。そこに書かれているのは要するに、こころと身体が密接に結びついているというような話ですよね。その中に、「身から絞られた言葉こそが言葉である」というようなことが書かれていて、その言葉がとても印象的だったんです。それは前日の対話の流れがあったからこそ、すっとその言葉が入ってきたっていう部分がありました。それこそ、素の自分の言葉で話したというか、身から出た言葉だったのかなって。自分の中にある全部の言葉を使って話していたっていう感じがあったから。だからこそ心地よかったし、伝わっているっていう感じがあった。だからこそ安心できたんだなって。だから、そういう身から絞られた言葉を大事にしないとなぁと思ったんですよね。

 

その言葉は今もすごく大事にしていて、例えば保育園で、いろんなお知らせとか、保護者向けのメッセージとか、日々の保育計画とかを書くことがあるなかで、今までは本の引用をして、自分の言葉じゃない言葉を書くことが多かったんです。けれど、やっぱりそれは良くないなって、あの言葉を見て思いました。良くないっていうのは、自分がそれに納得していないなって。誰かから借りた言葉を使っているっていうのがつまらない、っていうふうに思えてきて、だから引用するのを全部やめて、自分の言葉で書くようにしたんですよね。そうした時に、その方が周りの反応が良かったという部分もありました。子どもたちに対しても、保育の本に「こういう時はこうやって声かけよう」って書いてあるから、今まではそうしてきたけれど、そういうのは一旦置いておいて、自分がその時本当に思ったこと、感じた言葉を伝えようっていうふうにするようにしています。そこで仮にネガティブな返答がきたとしても、それは自分の言葉への反応だから、自分で納得できるというか、受け入れられる。そういう意味では、あの言葉との出会いは大きかったです。

 

 

ーそれは重要な変化であるように見えますね。

 

 

そうですね、変化ですね。もともとそうだろうとは思ってはいたんですけど。あわ居さんでの時間を通して自分の言葉を話して、それを受け入れてもらえることの良さみたいなものを感じて、その後にあの言葉に出会ったことで、ようやく「そうだよね」って思えた今、って感じですかね。

 

私の役割って何だろうって、ずっとモヤモヤしている中で、もちろんそのモヤモヤは今も継続しているわけですが、あわ居さんに行く前も行った後も、きっとそれは言葉に関する何かなんだろうと思ってはいるんですよ。人の話を聴いたり、人に寄り添う言葉を投げかけたり……保育士っていう仕事を選んだのも、そういう自分の役割を見つけるためにというか、自分の本質にあった仕事を探した結果でもあるんですよね。自分が今生を生きるうえで、きっとこういうふうに生きたら納得がいく形というのが、たぶん自分の言葉で生きるというところなのかなと……どの仕事もそうですけど、毎日いろんな形で、いろんな人と言葉を介して仕事をするわけですが、「そうだよな」って思えるような言葉を発すること、そういう言葉を大事にすることに対して、自分自身も覚悟しなきゃなって思ったというか。その一歩として自分の言葉を伝えるということ……それが自分の本質的な役割に近づく一歩なのだろうと。

 

ボディワークの先生からもよく言われるんです、良し悪しという評価軸ではない、もうひとつの答えこそが、次の扉を開ける鍵なんだって。でもそこがやっぱりわからないっていうところが苦しかったりするんですけど(笑)。

 

 

ーまぁでもそこが「安心感」だったりするのかもしれないですね。数値化もできないし、証明もできないけれど、でも「これだ!」みたいなのって。自分だけが感じる「確かさ」みたいなものというか。

 

 

モヤモヤするのはたぶん、そうありたい何かと違うとわかっているから、モヤモヤするわけですもんね……いやぁ、あわ居さんに行ってからまだ五ヶ月なのかぁ……五ヶ月とは思えないくらいに迷いに迷い続けている五ヶ月で、なんか長い感じがしますね。ボディワークの先生に「ただ漠然と生きていたら迷うことはない」って言われるんです。私はずっと苦しいんですけど、でもずっと苦しいっていうのは、「ジャンプする前の膝を屈んだ状態なんだよ」って言われていて。もちろんそこで「ジャンプしない生き方もあるけどね」とは言われるんですけど。でもここをこらえて、一個見つけられたら良いなぁと思ってはいるんですよね。その意味では、あわ居さんから帰ってきたあたりからが、一番苦しいですね。

 

 

ー苦しみを増幅させてしまったというか……(笑)。

 

 

いや、増幅というよりは、起きている事象自体はずっと同じことだと思うんです。でもその事象に対しての捉え方がズレてきているというか、そこで感じるズレが大きくなってきているんだと思います。というよりは、ズレを強く自覚するようになってきているというか。毎日毎日、ズレが大きくなってきている(笑)。「あぁー、ズレてるなぁ」っていう感じだったのが、「すごいズレてるわぁ」っていう。その意味でこれまでで一番しんどい半年。その半年のはじまりが、あわ居さんだったなって(笑)。

 

 

ーでも逆に言えば、ズレが鮮明に感じ取れるっていうのはすごく良い兆候というか、たしかな前進なのではないかということを思います。

 

 

そうなんですよね。……なんかねぇ。きっと無意識のうちにズレはないものにしていたんです。その意味では、あわ居さんの時間は、ズレをより自覚する大きなきっかけだったのかもしれないですね。それが前進なのかもっていうのは、すごくうれしいですね。苦しいは苦しいですけどね。

 

 

(*1)「満天の湯」はあわ居から車で約10分程度の場所にある入浴施設。

 

 

インタビュー実施日:2025年1月18日

聞き手:岩瀬崇(あわ居)