体験者インタビュー集
vol.3
Mさん(匿名希望)
30代男性
2020年12月「ことばが生まれる場所」を体験
―「ことばが生まれる場所」は、Mさんにとってどんな場でしたか?
その時は、正直かなり疲れていて。仕事のこと、結婚をしているパートナーのことなど、これからどうしていこうかと、色々考えて模索していた時期でした。真っ暗の中、手探りで自分にとっての大事なものを思い出そうとしながら歩いている感じで。方向性を見出そうとしている中で、コンパスは持っているけれど、針が時々ぶれる。航海に出ようとしているんだけど、天候が危うい。地図がしっかりと読めておらず、この方向で本当にあってるんだろうかという不安があったり、道に迷っている感じもある。そんな状況でした。
あわ居での時間を通して、コンパス自体の揺れがピシッとして、周りの視界も、天気がすうっと晴れていったような実感がありました。ただ、それはその場自体で変化を実感したというよりは、後からあわ居での時間を振り返る中で、感じることができたという印象ですね。向き合うものの解像度が上がっただけではなく、現実を直視出来た部分が強かった。一言で言えば、パートナーや仕事に対してのモヤモヤに対して、言葉だったり空間だったり、体感を通して、「自分にとって大事なことはこれだったんだなぁ」とか「そういうことだったんだなぁ」と実感できる、そんな時間でした。
―特に印象深かった場面はありますか?
食事中や食事後の対話の時間ですね。特に美佳子さんが加わってからの対話の中で、パートナーとの関係性について、三人で話し合った時間。何て言うのか・・・。空間がぐんと、重くなったと言うか・・・。しっかりとした時間になった感じがありました。自分が向き合うべき時間が始まったなって。例えば、料理をする時には、まずは何を作りたいかイメージして、収穫をし、調味料を集め、調理台に向かうといった手順を踏みますよね。その手順の中で、少しずつ作る料理への解像度が上がっていく感じがあると思います。それと同じように、自分が思っていたこと、考えていたことを場にだして、それらを繋ぎ合わせて、さあどこを見ていこうか、どうそれらに意味づけて言葉を作っていこうか、そのための環境が整った。「いま調理台に立った」っていうような、そんな感じがありました。
―あわ居にチェックインしてからは、まずはMさんの中のいろんな断片を洗い出してる時間だったということですね。
そうですね。すぐに何かが起きたというよりかは、最初はまず、感じるという所がスタートでした。家族や仕事の仲間、知人に自分の状況を話すことはこれまでもしてきたけれど、初めて会った人にそういう話をしたことがあまりなかったので。この時間に何が起きるんだろうとか、自分はどういう気持ちなんだろうっていう部分で少し不安もあったんです。でも僕の場合はそこからすぐに楽しめる方向に入っていけました。その後、食事や対話をしていく中で、自分自身の現状についての話を一回出し終えた後、そこに対して、あわ居の崇さんや美佳子さんが感じられたことが返ってくる。それで返ってきた言葉を自分が新たに飲み込みなおす、そんなことが起きました。 お二人と対話しながら、自分も溶けて新しくなっていくような対話。対話の中で、「それはこういうことなのかもしれない」という、状況に対しての新たな意味や解釈が出てきて、自分がそれを受け入れて、また対話を展開していく。そういうことが起きていました。
―Mさんが話してくださった内容や事実に対して、あらたな解釈や見方が場に出てきて、それを受けて、新たな対話がひらかれていった。そんなイメージでしょうか?
そうですね。アンラーン(学びほぐし)とも言えるかなと思います。編んであるセーターをほどいて、一旦元の毛糸にもどして、そこからまた自分の身体に合わせてセーターを編みなおすというか。(*1)
―具体的に対話した内容について、特に印象に残ってるものはありますか?
うーん・・・・。今ぱっと思い出されるもので言えば、美佳子さんがご自身の過去の人間関係の話をしてくださった時に、「その時は相手に100%非があると思っていたけれど、今はやっぱり半分半分ぐらいで、自分も悪かったと思う」という話をされました。そこで自分がふっと思ったのは、今の自分は、パートナーが100%悪くて、僕は全く悪くないという、そういう世界の見方をしていないかなということでした。仮にそうでないように語っていたとしても、本当に50対50で、自分がその状況を引き起こしている者として、その責任を負っていたのかということを、その場で考えさせられた。そういう内省がありました。
あとは後半に、崇さんから「すべてを引き受けることが大事だと思う」という言葉の投げかけがありました。僕は来たものに対して、反射的に「これはこうだ」とか、「これはこうなんじゃないか」という風にしてしまう傾向がある。だから、その言葉を聞いた時に、まずは受け止めるということが自分は出来ていないのではないかということを感じた。来たものに対して自分を変容させながら、それに応じていくことが出来ていないんじゃないか、向き合えていないのではないかということを考えさせられたんですね。
崇さんのその言葉は、いろんな意味に捉えられる言葉だと思うんです。だから、いろんな自分の言動、それまでの気持ちなどを振り返りながら、あわ居を出てからも、色んな瞬間にその言葉を思い出していましたね。石徹白から帰る際、実は凍った峠道でスリップして車が三回転したんです。でも三回転したにも関わらず、車は壁にぶつからず、すっと方向転換して進むことができた。その時に、なんだろうな・・・。スローモーションじゃないですけど、「自分は、いま、本当に真摯に生きられているのかな」ということを考えさせられて。「地に足ついて生きているのか」と言うか・・・。足元をすくわれたように感じました。「ちゃんと生きろよ」と言われた気がします。その後にも崇さんの言葉を思い出したり、あわ居での時間や中居神社での時間を思い出したりしていました。
―あわ居の空間の印象や体感についてもお話して頂けますか?
空間は異空間な感じがしたんですよね。あわ居に来る前に、石徹白の人と話したり、白山中居神社に訪れた流れの中で、そういう石徹白地区の流れとはちょっと違う感じの空間だった。石徹白なんだけれど石徹白ではない所に入った感覚がありました。
入口すぐの暖炉の温もりが、まずはすごく良かったですね。包まれた感じ、迎えられた感じ、安心感があった。あと印象に残っているのは、僕が持ってきたみかんを、食事の時に、サラダにトッピングして出してくれたんですよね。即興だから、「時間がかかっちゃう」とか、「時間通りにいかないんだ」って美佳子さんはおっしゃってましたけれど。そういう所に、大事な友人として迎え入れられているような感覚を覚えました。あとは、個人的に僕は本が好きなので、本がたくさん部屋に置いてあって、ひとりの時間になった時にいくつか手にとってみましたね。安心した瞬間がたくさんありました。
少し話は逸れますが、僕が昔ホームステイをしていたフィリピンだと、ご飯を食べる時に、家族だけでなく、近くに住んでいる親族が集まって、普通のご飯よりも少し豪華なご飯を食べる時があるんですね。せっかく来てくれたからお祝いしたい、この料理食べてもらいたいって。その時の招かれている感覚にも似ていましたね。僕が来ることを特別に思ってくれている感じと言うんでしょうか。例えばビジネスとしての民宿に泊まったり、ホテルにチェックインする感じとはまるで違うし、実家や友達の家で食事するのともちょっと違う。自分自身が、特別な存在として大事にされて、招かれている感覚があった。
勿論、自分が日常から引きずってきた緊張感や疲れ、初めて会う人に対しての身体的な硬直を最初は持っていました。でも、暖炉のあたたみや、料理、空間の雰囲気、空間の素材、木の板のぬくもりや布やラグ、本や照明、音楽など、そういう要素が、総合的につながりあっていくことで、自分がほぐれていって、体の感覚や実感が見えてきた。もちろん大切な友人として招かれたみたいな感覚の中にも、節度はあって、その幅の中でのリラックスが出来たという印象でした。あわ居での時間に安心できるものをたくさん認知できたから、同じように、自分が大事にしているものを開示してもいいなぁと思えたんだと思います。そして開示したものが、ちゃんと受け取られたなぁとも思えた。
ーーそうした体感や出来事があわ居であった中で、日常の中で起きた変化などは何かありましたか?もちろんすべてが直接的に作用したということは言えないとは思いますが・・・。
とても抽象的な言い方ですが、俯瞰的に物事を見れるようになった部分は多少あるかなと思います。自分として生きることや、現実に向き合うことの深さが変わった気はしますね。仕事においても大きな変化があって、どこか腹が据わった感じがあります。例えば仕事で、場の進行役をするときに、自分の実感と繋がりながら、堂々と発言することが出来るようになった気がします。同僚からは元々それが出来ていると言われてはいましたが、でも前は、自分自身と自分から発せられる言葉が、多少離れている感覚がありました。自分の身体的な感覚から少し離れて、その場に必要とされている言葉を、頭で考えて伝えていた。
でも今は、自分がその場に入った状態で、自分の実感から言葉を紡ぎ、自分を活かしながら、対話や場、人に対して、関係性やプロセスを紡げるようになったという感覚がある。場を俯瞰していながら、そこから離れていない状態を維持できるようになったし、自分の腹から言葉が出ているから、自分の言葉が他者に伝わっている感覚がありますね。仕事仲間からもそういうフィードバックを実際に受けました。仕事をやめるというタイミングだったということも影響していたかもしれないけれど、自分としてはあわ居で過ごした時間がそうさせてくれた部分があるような気がしています。
ー判断基準がより自己本位になってきたというか・・・。
そうですね。前は自分が場を俯瞰している時は、そこから自分は抜けていたんです。場に自分がいなかった。だから客観になっていたんです。「今はこういう状況ですよね、だからこうなれば良いんですかね」といった形で提案をして、自分と切り離して場を見ていた。けれど、今は自分もその場に含まれながら、場に繋がりながら、場の中で、言葉が紡げている感覚が強くありますね。
ー仕事以外の場面では、何か変化はありましたか?
・・・。やっぱりパートナーとの接し方は変わったかなぁ・・・。接し方というか、家の中での会話が特に変わったかなぁと思います。「また自分は同じことを言ってるなぁ」とか、「だから伝わらないんだよなぁ」って気付いたり。自分の行動や意志が変わればどうなるのかを、良い意味で俯瞰しながら見ることが出来るようになった気がします。 あわ居に行く前は、反射的な対応が多かった。「何でそんなことをするの?」とか、「何でそんな風なの?」といった形で、自分が感じたことを、ぱっと言葉にして、出してしまっていた。でも今は、自分が感じたことをすぐにパッと出す前に、自分は二人の関係性としてどういう形を願っているかとか、相手がそれをする背景といったことを考慮しながら、言葉を発したり、関係を紡ぐことがだんだんと出来るようになってきましたね。すべてが完璧なわけではないですが。前は、自分とパートナーを切りはなした上で、軸を自分だけに置いて、自分の意見を言っていたんです。でも今は、自分と他者、両方に軸をおいて、もう一個レイヤーが上がった状態で、言葉や関係性を紡げるようになった感じはありますね。
ーー引きすぎて自分を出さないわけでもなく、逆に押しすぎて自分を出しすぎてしまうでもなく。関係性の中でのすり合わせをしつつも、そこにご自身を滲ませることが出来るようになってきた、そんな印象を抱きました。
そうですね。そうだと思います。
ー今日は、長時間にわたるインタビューをありがとうございました。最後にあわ居について一言頂けると嬉しいです。
あわ居は自分が自分として息づいて良いのだと感じられる場所だと思います。星野道夫さんの言葉に「悠久の自然」というものがあるのですが、自分はあわ居で過ごした体験というのは、星野さんのいう「悠久の自然」を想うのと同じような時間を過ごしたなぁと感じています。少しだけ引用させてください。
日々の暮らしに追われている時、もうひとつの別の時間が流れている。それを悠久の時間と言っても良いだろう。そのことを知ることができたなら、いや想像でも心の片隅に意識することができたなら、それは生きてゆくうえで、ひとつの力になるような気がするのだ。(*2)
あわ居があること、そこに生きている人がいること、そして自分があわ居で時間を過ごしたという体験があることで、力を与えてもらえると言うんですかね。なんて言えばいいんだろう、、、、。その事実だけで、自分が今いる現実が満たされたり、日常が豊かなものになる、そんな感覚を覚えています。今を生きる上での変化を与えてくれている。あわ居の時間を日常の近いところで再現しようとしても無理で、それも含めてあわ居での時間は「悠久の自然」だなっていう感覚がありますね。
*1:『ワークショップと学び3 まなびほぐしのデザイン』
*2『長い旅の途上/星野道夫』
インタビュー実施日:2022/4/27および5/17 聞き手:岩瀬崇(あわ居)