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生を深める場所

  

あわ居は、芸術、教育、食、ケアリング、ツーリズムなどの領域が、重層的に絡まり合って営まれており、近現代の分類から見れば、よくわからない施設だと思う。

 

おそらく近現代という時代は、細分化された領域ごとに「絶対性」を措定し、各領域が各々の「絶対性」に向けて高度化していくことが全体としての社会に大きな価値を寄与するのだと、そう考えられてきた時代なのだと思う。もちろん、そこには大きな進歩や発展があったわけで、その良い面は活かしていくことが大事だと思う。けれども、近現代が積極的に推し進めてきた分野・分類には不徹底があるし、そもそも分類をすること自体の不可能性も露呈しているように思う。分野ごとの「絶対性」を盲目的に追従することによる閉塞感、そうしたものが現代社会を覆っているように思う。分野ごと分野の越境・再編をし、部分や断片ではなく、全体性というものを今一度見つめ直し、社会を再構成していくことが現代の喫緊の課題である。

 

そうした時代的な背景にも多分に影響されつつ、あわ居を作っていくにあたっては、寺院や修道院にモチーフを得ている。寺院や修道院は、学問あり、出版あり、図書室あり、芸術あり、医療あり、共同生活あり、宿泊機能あり、、、、、の、複合的な役割を担う施設だと言われている。現代は、それらの機能を、大学、出版社、図書館、美術館、病院、宿などの各専門機関に分配し、高度に専門化されることで、発展・維持されてた側面が多分にあるのだが、では、寺院や修道院が担ってきた学問、出版、図書室、芸術、医療、共同生活、宿泊といった要素に通底し、それらを根底で統合しているものは何だろうと問うと、「生を深める」「世界をひらく」といったことなのではないかと私は考えている。そして寺院や修道院においては「生を深める」「世界をひらく」ことがそのまま「宗教的信心を深める」というところに接続していたのだろうとそう類推する。

 

けれども、リンダ・ランティエリが言うように、「宗教は実際のところ、人の霊的な本性のひとつの表現でありうるが、多くの人は彼らの人生のスピリチュアルな次元を、特定の宗教に寄りかかることなく育んでいる*1」。だから、そうした「生を深める」「世界をひらく」という行為は、必ずしも「宗教心」に結び付く必要はなく、また宗教施設、制度の中だけで、実施される必要はないのではないかと私は思っている。

 

「生を深める」「世界をひらく」という行為は、決して一領域で完結するものはなく、極めてホリスティックなものだと私たちは考えている。あわ居で「生を深める」「世界をひらく」体験をする中で、現代的な意味での「超越的なもの」に触れる契機をつくっていければと、私はそう思っている。

  

 

 *1 mofett,james.1994.The Universal Schoolhouse.San Francisco:Jossey-Bass pxix