人類学者のヴィクター・ターナーは「境界状態(リミナリティ)」という概念を示した。「境界状態(リミナリティ)」は、「これまでの生き方には戻れないけれど、これからの生き方が見えているわけでもない」そんな状況だと言える。曖昧でどっちつかずの、不安定な状態。こうした「境界状態(リミナリティ)」は、子ども、おとな問わず、人生の大事な節目で不可避的に、継続的に訪れてくるもので、逆に言えば、「境界状態(リミナリティ)」は、より高次の在り方に向けた「試練の時」だとも言える。より高次の本質的な生を歩むにあたっての、この上ない「契機」。
「境界状態(リミナリティ)」において必要となるのは「反構造」的な場で、あわ居はこうした「反構造」的な場でありたいと思っている。一般的な社会生活を営む中では他者からの評価、役職、立場、権力、性別などによって個人はラベリングされ、制度などによっても無意識的な抑圧を強いられている。勿論、社会的な日常が円滑に営まれるためには、そうした「構造」は必要不可欠なのだが、しかし「境界状態(リミナリティ)」においては、そうした社会的な「構造」から離脱する必要がある。なぜなら「構造」が反転する「反構造」的な場や関係性の中でしか、感得できないもの、回復できないものが人間にはあるから。巡礼や茶の湯、バックパックを背負っての旅などは「反構造」の最たる例であり、社会的な秩序からはずれた、真に平等で非合理的な関係性、コミュニケーションの中でしか体験できない、生命という秩序への合流が果たされる場というものがこの世界には確かにある。そうした「場」での心身の変容を通じて、私たちは「境界状態(リミナリティ)」を克服し、新たな「姿」への着地、再生へと至るのだと私は思う。
「境界状態(リミナリティ)」は自己卑下や鬱屈を伴う非常に厳しい期間ではあるけれど、しかしこうした「からっぽ」の時には、意識下で、「未だ知られていない新たな自分」が胎動しているのだと思う。意識下の「未だ知られていない新たな自分」と出会うために、かつて巡礼者はあてのない旅をしたのだろうし、かつての武士たちは茶席に足しげく通ったのだと私は思う。社会的な秩序からはずれた平等で非合理的なコミュニケーションの中で、意識下に潜在する「未だ知られていない自分」との邂逅が果たされ、新たな「姿」へと生まれ変わる。
「未だ知られていない新たな自分」が暴露され、現前するような時間がそもそもいつ、何によって、どんなタイミングでやってくるのかは、それがやってくる前の段階ではだれにもわからない。だから結局はそうした時間が到来するか否かは「偶然」に左右されるところが大きいと思う。しかし、優れた美術作品や文化的な場というのは、そうした「偶然」を確かに誘発させる「場のちから」をもっていると私は思う。「あそこに行けば何かが起きるかもしれない」「これに参加したら何かのきっかけをつかめるかもしれない」という期待にいつでも応えてくれるし、もう少し言えばあそこに行けば確かに何かが起こるという《予知》が出来てしまうようにも思う。だから見方を変えれば、そうした「偶然」が起きるのは「必然」であるとも思えてくる。そうした「偶然の必然」を誘発するメディアがアートだと私は思う。だから、アートは、決して絵や音楽などの狭義の芸術に限らない。「必然の偶然」を引き起こす施設や、場をつくっていくこともまた、ひとつの「アート」だと私は考えている。あわ居はそんな「偶然」を誘発する「場」で有れたらと思っている。
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