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テゼ共同体から

 

 

2020年の4月くらいに自分自身の頭を占拠していたのは、今日における「聖地」とは一体なんだろうということだった。かつてそこが聖地として崇められていたとしても、建築物なりモニュメントが客体的にあるだけでは、そこはもはや聖地たりえないのではないかという、そんな問題意識があったのだと思う。そんなことを思案する中で出会ったのがフランスの「テゼ共同体」についての論考だった。テゼはキリスト教の教派を越えた修道院であり、昨今は主に夏季にツーリストがテゼを訪れ数週間ほど滞在するというスタイルが定着されつつある。

 

テゼ共同体についての論考を読みながら、そこでの滞在では「自らの手で、そこを聖地化する」ということを重要視しているように私には感じられた。客体として「テゼ共同体」があり、そこに出向いたり、そこで数日をそこで過ごすだけでは、そこは「聖地」にはなりえない。だからパッケージツアーの中にテゼ共同体への訪問が組み込まれ、ツーリストが何の気なしにそこを訪れても「何もないではないか」ということになる。そこを「聖地」にできるか否かは、そこを訪れるツーリスト ひとりひとりの能動性に依拠しているということが言えるのだと思う。

 

テゼにおいてとりわけ重要視されているのは「横の交流」である。その時そこに居合わせたツーリストの間で偶発的に展開される相互作用、合唱、ディスカッション、調理、掃除といった共同作業を通じて「超越的な体験」へと導かれていく。超越的と書くと少し突拍子もないが、要はそこに居合わせた人々と偶発的な応答をしながら、日常では得難い深度のあるコミュニケーションを展開していくと考えればわかりやすい。そのコミュニケートの深さが、「外=非知」に触れるぐらいにまで高められるということなのだと思う。だから、テゼに足を運ぶツーリストたちは、「テゼ」という「メディア」を用いて、その都度偶然居合わせた人々と、「聖地」=「場所」を作り出しているのだという風に私には思われた。

  

こうした様相は、例えばスペインのサンティアゴ巡礼においても見られ、現代においては「巡礼」や「巡礼路」はあくまで「素材」であり、その「素材」を媒介として、ツーリストはそこに自分なりの「意味」を見出している(*1)。こうした有り様については勿論様々な批判や議論があるのは事実だが、岡本亮輔氏は以下のように記している。

 

私は、宗教は「衰退」しているのではなく、社会の変化に合わせて「形を変えている」と考えています。(*2

 

つまり、従来の制度的な「宗教」ではないところで、「宗教的なもの」が拡散している、ないしは「宗教的」であること自体が多様化しているというのが、岡本氏の主張するところなのだと思う。宗教が世俗化したと言われる今日にあっても、人間の生には「超越的なもの」「至高的なもの」が不可欠であると私は思う。テゼ共同体や現在のサンティアゴ巡礼のように、「超越的な体験」を自らの手で作り出せる「メディア」の必要性をひしひしと感じている。あわ居もそのような場所になっていきたいと思っている。

 

 

 

テゼ共同体については、岡本亮輔氏による論文『聖地の零度 : フランス・テゼ共同体の事例を中心に』が詳しいです。本文を記載するにあたっても、こちらの論文を参照しています。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/religionandsociety/15/0/15_KJ00006015201/_article/-char/ja/

 

*1  https://www.circam.jp/columns/detail/id=2902

*2 同上