私はもともと『教育』と「芸術」の間くらいに根本的な興味がある。
近現代の公教育が射程にいれてきた(いる)のは、社会や国家をまずは前提にして、その成員として「人間」はどのようにふるまうべきか、どのように育まれるべきかを上から設定し、然るべき教育的介入を教育機関において施していくことだと思う。システムや国家的な戦略を円滑に遂行していくに際しての「課題」を設定し、それを的確に遂行していくための「人材」を育成し、供給する、そんなイメージだと思う。
こうした教育に対するオルタナティブは多々あるように思うが、私がとりわけ興味を頂いているのがホリスティック臨床教育学である。中川吉晴氏による『ホリスティック臨床教育学』によれば、ホリスティック臨床教育学というのは、「教育」「心理療法」「霊性」の三領域の統合するもので、成長や陶治といった「教育」における形成的変化、治療や癒し、回復といった「心理療法」における治療的変化、覚醒・発達・悟りといった「霊性」における超越的変化、これらの3種の変化を包括する語句として「変容」を用い、生の全体性の回復を目指す営みとして想定されている。
そうしたホリスティック臨床教育の実践方法として、ボディワークや芸術活動、野外活動、共同学習などが例として挙げられているのだが、私自身、目から鱗だったのは、「対話による教育」というものが、「魂のケア」、ひいては「霊性教育」のひとつの原型として捉えらているという点であった。「対話による教育」というと想起されるのはソクラテスだが、中川氏は以下のように記述している。
ソクラテスが魂のケアを教育の中心に置いていたという事実は、臨床教育学にとって重要である。というのも、教育の原点に、ソクラテスを介して臨床教育学的な方向が存在し、しかもそれが教育の中核をなしていたからである。むしろソクラテス以降の教育の歴史はそうした臨床教育学的な関心から離れていった過程とみなされる*1
ソクラテスがその教育的活動(対話・問答による吟味)をつうじて目指していたのは、自己探求への導きであり、探究をとおして魂が目覚めるように助けることである。(中略)ソクラテスの吟味は知的な議論にとどまることなく、身心の有機的統一体としての人間に自己変容を引き起こすものだったということである。吟味は個人の日常的存在様式を疑問に付し、その大疑のなかから人はさらに深い自己にきづかされるのである。(中略)魂のケアとは、人が表層的自己から脱同一化し、存在の深層に目覚める(それを想起する)ように働きかけることである。*2
この文章に私は身震いをした。そうか、「対話」というのが、「教育=魂のケア」になるという発想が私にはまったくなかった。自分があわ居でしている「対話」は、確かに手ごたえはあれど、それはどういう行いなのだろうかと自覚できていななかったのだが、ひとつの側面として「臨床的な教育」でもありうるのだということが把握され、「開け」が見えた気がした。また同書籍の中では、「瞑想」と「心理療法(言語的介入)」の相互補完的な関係性についても言及されていて、あわ居の「場」を構築していく上でもとても示唆的だった。あわ居なりの技法というものを、これからも探求していきたいと思っている。
*1『ホリスティック臨床教育学』中川吉晴、p105
*2同掲書 p106~107
コメントをお書きください