はやいもので、あわ居を営みはじめてからもう4年目になる。その間、新型コロナウイルスの影響を多分に受けつつも、だから故に見えてきたことがあり、改善できたことがたくさんあった。様々な出会いがあり、変容があり、多くの学びがあった。私は、このあわ居という場所をはじめて本当に良かったと心から思う。
これまで、ホームページの公開こそしていたものの、あわ居を営みながら、自分たちが考えてきたことについては発信することがなかったし、特にどこかに記してきたわけでもない。なぜだろうか。
これまでの私は、岐阜県という地方の、その中でもとりわけ奥地にある石徹白集落の中の、一個人が細々とプライベートに営む一つの場所を起点に起こっていること、発露していること、そこから展開していく思考に対して、それをあくまでか個人的なものでしかないのだと思ってきたのだと思う。それは別に卑下しているわけでも、謙遜しているわけでもなく、ただただ「そのようなもの」としてそれらを捉えていた。それに、目の前の他者に何ができるのかを考え、そこに応答していくことだけで、十分すぎるくらいの悦びを感じていた。
けれども、ここ最近ある出会いをきっかけにして、自分の中に芽生えてきたひとつの傾向がある。あわ居を営みながら自分たちが考えきたことや、ここでの実践について文章に記し、それらを他者と分かち合ってみたいと考えるようになったのだ。これは自分にとっては驚きではある。けれども、もしかすると心の奥底ではこのようなことを望んでいたのかもしれないなということも同時に思っている。だから、少しずつこれまであわ居を通して考えてきたこと、見えてきた世界について、ここに書いていきたいと思う。
そこにどのような意味があるのかはわからない。このあわ居という、自分達でもまるで全貌がつかめない「謎」について記していくことは、私にとっては意味も価値もわからない言葉をあえて他者に晒し続けるということになるのだろう。けれども、そうした言葉を発するところにこそ、案外「社会」というものが展開していくのではないか、新たなあわ居が生成していくのではないか、そんなことを今は思っている。
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