あわ居で様々な方と接する中で気づかされたのは、個々それぞれが自分自身の「ことば」をそれとして育んでいくことの難しさである。それが何に起因しているのかという問いはあまりに壮大で、私にはわからない。近現代の教育による影響があるだろうし、街に溢れる広告の影響もあるだろう。そもそも今の社会で過不足ない生活を送る上では、「ことば」はそれほど必要とされていないのかもしれない。
「今、私は、何を感じているのか」ということがとても実感しづらい社会だし、「今、あなたが、何を感じているのか」ということに対しての無関心があまりに蔓延る社会だと思う。むしろ「今、私は、何を感じているのか」ということに対して盲目にさせておくことで、利益を得ようとする人間がそこかしこにいるのかもしれない。そうした社会では、なかなか個々それぞれの「ことば」は育ちにくい。「ことば」が育っていかないということはおそらく、その人らしい生を送ることへのためらいや躊躇へと繋がっていくのではないかと思う。
けれども、自分自身の「ことば」を育て、それを基軸に生を営んでいきたいと思っている人は、潜在的にはとても多いのではないかということを感じている。どこかに設定された基準や、誰かの価値判断ではなく、「自分にはこうとしか思えない」ということを他者に対して表明することは、とても恐い。けれどもそうした過程でしか得られるものがあると思う。それが自分自身への信頼であり、身体への信頼である。
「ことば」が育っていくために必要なものは何だろうか。私はそれは「安心感」なのではないかと思う。自分自身で世界を感じ取ること、感じ取った世界について語り合う事、心身が感じ取っている違和の感覚が、なんの留保もなしに受け取られる場所。本来、教育機関というのは、こうした「安心感」を基に形成され営まれていくのが望ましいと思うし、極端なことを言えば、その人自身の中で自己の身体への信頼が形成されたのならば、もうそれだけで十分な教育の成果なのではないかということを思ってしまう。教育学者のボルノウの庇護性という概念にはとても共感する。
あわ居では「ことばが生まれる場所」というものを実施していて、体験者インタビューをアーカイブしている。このインタビューをしながら思ったのは、「その人にしか語れないことば」があるということである。そして私はそのかけがえのない、その人にしか語れない「ことば」を聴くのが好きだ。そんな「ことば」を、何より自分自身が聴きたいから、私たちはあわ居をやっているのかもしれない。そして、もしかすれば、その人にしか語れない「ことば」が生まれる時にこそ、その人はその人として、よりその人らしくなっているのかもしれない。
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