あわ居を営むことの醍醐味はいくつもあるのだが、その中のひとつが、「社会をつくる」という感覚が実感できていることだと思う。社会などと書いてしまうと、国家であるとか、システムであるとか、そうした大きなものをつい想定してしまいそうになるし、それはそれで紛れもなくひとつの社会なのだとは思うが、私がここで述べようとしている社会というのはそうしたものではない。これは人類学者のレヴィ=ストロースによる「真正な社会」と「非真正な社会」という分類とおそらく近しい感覚なのだろうと思う。
私があわ居を通して実感している社会は、小規模で、直接的で、生き生きとした実感を伴う他者との相互作用を基盤とする関係性であり、またその集合体のことだ。この「生き生きとした」というところがおそらくポイントで、これは決して顔見知りであるとか、対面で話をしているとか、それのみで実感できるものではないような気がしている。人間の内発性を喚起し、促進するような「運動体」が、お客さんとの「あいだ」で感じ取れること。互いが「外=非知」へと連れ出されてしまうこと、そんな現象が起きたときに、私は「生き生きとした」ものをそこに感じる。そこで「分有」されているものにこそ、人と人の真の意味での連帯や紐帯があるのではないかと感じている。もちろん、こうした実感がいつでも得られているということではないのだが、少なくともこの4年間の運営の中で、こうした実感を得たお客さんとの関係性があった。こうした関係性を基盤に営まれる「経済」が成立するとすれば、現代をとりまく閉塞感に対して、ひとつの可能性になるのではないかと思っている。
さて、私にとって「生き生きとした」相互作用の何が面白いのだろうか。おそらくそれは、「わたしの顔」が暴露される瞬間がそこに含まれていることが関係しているように思う。つまり、そのお客さんと関わることがなければ、決して見えてこなかった「わたしの顔」が立ち現れてしまう瞬間が、時折確かにある。そうした瞬間の現前は、わたしに新たな自覚を促してくれる。わたしが、この一生において何を引き受け、どのように他者と関わっていけばよいのか、わたしには何が出来るのか、わたしが「誰」であるのか、その新たな地平を私に垣間見せてくれる。そしてそれは、わたし自身や、生に対してのさらなる「謎」を生み、その「謎」が何であるのかを知るための、新たな他者との出会いへと私自身を駆動してくれる。同様のことがお客さんの中でも起きているとしたら、この上ないことだと思う。
こうしたコミュニケーションは、現代の社会で展開されるそれからみれば、あまりに過剰なものなのだと思う。過剰であるというのは、不確かであるということだ。混沌に身を置くということだ。どうなるのかわからない、どのように関われば良いのかがわからない状態で、それでもなお他者に触れようとするときに、そこにおそらく過剰なものが立ち現れてくる。だから、過剰さというのは、無防備さとも関連してくるような気がする。
コミュニケーションとは、そもそもあらかじめ意図をもってなされることなのだろうか。あらかじめ意図することや伝えたいことが主体にあり、それを過不足ない形で客体がそのまま受け取れば、それがコミュニケーションなのだろうか。私にはどうしてもそのように思えない。目の前の他者と、不確かさを抱えた中で、その人に自分は何が出来るのかはわからない、どのように関われば良いのかわからない、失礼をするかもわからない、拒まれるかもわからない、けれども思い切って語り掛けてみる。ことばを投げかけてみる。もしその先に、他者の身体から反響してくるものがあるとすれば、そこに生じているものこそが「ことば」であり、「意図」なのだと思う。
おそらく、このようなコミュニケーションは「共同体」的なものでは決してない。「共同体」とは、何かしら具体化されたアイコンを共有したり、ある同質的な傾向を基盤として営まれる関係性のことだ。私があわ居で、「生き生きとした」ものを実感できている時は、確かに私たちとお客さんとのあいだで、「運動体」を分かち合っているような気もするのだが、おそらくそれは錯覚なのだと思う。私たちは、同一の運動体を共有しているわけではなく、個々それぞれが自らの生命に押し流されているという事態における「類似」を分かち合っているだけなのかもしれない。けれども、そうした事態を分かち合うことは、個々それぞれが、たったひとりのかけがえのない自分として生成し、発展することを強く後押ししてくれるのだと私は思う。それこそが私たちが真に包摂される瞬間なのだと思う。個が個として生成するプラットフォームとしての「社会」。そうしたものを私はあわ居で作っていきたいと思っているし、そんな「社会」がそこかしこに出現する未来を見たいと思っている。
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