あわ居がどんな場所なのかを一言でいう事はとても難しい。けれどもあえてそれをするのであれば、私たちはあわ居を通して「詩」を作っているのではないかということを思う。
勿論、ここで言う「詩」というのは宮沢賢治やリルケの書くようないわゆる文芸としてのそれではない。あわ居で作っている「詩」とは、自らの「外=非知」にふれる瞬間のことだという風に私は認識している。自分自身がまだ知らない世界へと連れ出されてしまう契機としての「詩」。それまでの自分自身がいなくなる瞬間であると同時に、新たな世界の始まりが告げられる瞬間でもある「詩」。「詩」はこの世界の様々なところに、様々な形で潜在している。人との出会い、書籍や作品との出会い、風景との溶解、歴史との遭遇・・・。「詩」は私たちに、この世界の果てのなさを教えてくれるように思う。これほどに豊かで、これほどに深淵な世界があるということをまざまざとみせてくれる「詩」。私たちの生をひらき、いつでも道を示してくれる「詩」。
正確に言えば、「詩」は人に作れるものではない。それはいつでも私たちに不意に訪れるものであるように思うから。けれども、「詩」が生まれるための場を整え、そこで様々に試行錯誤をしながら、「詩」の訪れを待つことは出来るのではないかと思う。だから、私たちが出来るのは、そうした場を整え、そこで目の前の人と関わりながら、その人にとっての然るべき時の訪れを待つことだけなのだと思う。
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