今年の9月に、私が大学自体にゼミでお世話になった田渕先生が、ゼミ生5名を連れて、石徹白に来訪された。目的は、石徹白で聞き書きを実施するためで、私たちは、現在石徹白地区の地域おこし協力隊である加藤さんと共に、そのコーディネートをし、また宿泊についてもあわ居で担当をした。
私自身、22歳の時に田渕先生に連れられて訪れた島根県の隠岐諸島の海士町において、それはたった3日間の滞在ではあったけれども、人生の価値観がひっくり返るような、そんな得難い体験をさせていただいたことは、今も鮮明に記憶に残っている。もちろん、まったく同じことは起きようもないわけだが、それでもわざわざ東京から石徹白というこの僻地まで足を運んで頂く先生や学生さんたちに対して、最大限の自分達が出来ることをしながら、何かしらの体感や気づきがそれぞれの中に生起することを願いつつ、事前準備や当日のアテンドにあたった。
フィールドワークの当日、私は女子学生1名と、田渕先生の3名でグループとなり、Tさんという80代の男性にお話を伺った。前半は、地域の支援センターで実施したこともあり、Tさんとの質問のやりとりがあまりうまくいかず、なかなか聴き取りが難しかったのだが、Tさんのご自宅に場所を映しての後半は、当時の写真を見ながら生き生きとした語りが展開し、またそれにつられて同伴者である私自身も次々に聞いてみたいこと、質問したいことが湧いてきて、とても豊かな時間が流れたように思う。
Tさんは10代の後半までを石徹白で暮らした後、ひょんなことがきっかけで、北海道で自衛隊の仕事に就くことになった。当時の石徹白では、多くの家庭で馬を飼っていたのだが、北海道に行った時に見た初めての乳牛に魅了され、「自分もいつか乳牛を育ててみたい」と思ったとのことである。自衛隊が休みの日は、近くの牧場に足を運び、乳を搾り、乳牛の育て方を学んだそうだが、その牧場に小学3,4年生くらいの小児麻痺の子どもがいつもいて、Tさんはその子と遊ぶのがとても楽しみだったと嬉しそうに話してくれた。北海道での自衛隊での仕事を数年で切り上げたTさんは、福井県の大野市に移り、そこで乳牛を育てながら生計を立て、その後ブラジルに移民として入植する。どの話も本当に興味深く、Tさんの方でも写真を見れば話は尽きなかったが、当日のスケジュールもあったため、御礼を言い、キリの良いところでTさんのご自宅を後にした。
学生たちはその後、あわ居に戻り、聞き書きで感じたことをまとめたり、話し手の方への御礼の手紙などを書いたりした。私は、夕飯の準備を手伝いながら、その日の聞き書きで得た感慨が何だったかをぼんやりと考えていた。
夕食を食べた後、皆でダイアローグをし、それぞれが聞き書きの中で感じたことを共有することになった。Tさんの人生は、偶然に偶然が重なる中で展開されていることがまずは一番印象深かったので、私は、そんなTさんの偶然に彩られた人生の不可思議さについて共有をしようと話し始めたのだが、どういうわけか、すぐにその話をする気は消えてしまい、少し言葉に詰まってしまった。すると、ある場面がふと自分の中に想起された。それはTさんが「その坊が、かわゆうてなぁ(かわいくてなぁ)」と言っている場面だった。
北海道の牧場で、小児麻痺の子と遊んでいた時のことを述懐する徹さんは、確かにこの言葉を、あの時何回か口にしていた。けれど、私は話を聴いている時には、そこに特に気をひかれたわけでもなければ、なにか印象深いものを感じたということでもなかった。けれども、なぜかそのダイアローグで自分の番になった時に、Tさんのその言葉が想起されたのである。
「その坊が、かわゆうてなぁ(かわいくてなぁ)」。
もう少し言えば、その言葉から喚起される、Tさんとその男の子が遊んでいる情景であったり、その時の関わりの密度のようなものが、自分自身を襲っていたのかもしれない。数十年前に起きたはずの彼らの交わり。その交わりという、ひとつ場所から、ひとつの穴から、こそっと誰かに今の自分が覗き込まれた。覗き込んだその誰かは、さっと一瞬私を覗いただけで、またすぐにどこかに行ってしまった。そんな感じがした。
今はこうしてその時から時間も経ち、距離をおいてその時のことを眺めることが出来る。あの時に、一体自分に何が起きたのかということについての理解も、あの時よりは少しだけ進んだような気もする。
けれども、ダイアローグで私が当初話そうとしていたことを話そうとした途端、あの言葉、あの場面が急に私を襲ってきて、私は動揺した。だから、正直に、ダイアローグの時間では、Tさんの「その坊が、かわゆうてなぁ(かわいくてなぁ)」という言葉を聞いて、「どう生きたら良いのかがわからなくなってしまった」ということを皆に共有した。これだけ言ったところで、周りは「え??」という感じだったと思うが、自分としてはそのようにしか言いようがなかった。
後日、このエピソードを友人に話してみても、揃って「え、どういうこと??」と言われてしまうし、自分でもわけがわからないと、そう思う。けれども確かに「その坊が、かわゆうてなぁ」という言葉は、私を襲ったのだ。言葉は何を運ぶのだろうか。言葉とは何だろうか。いやむしろ、「私たちは何を運ぶことを期待されて生かされている者なのだろうか」。
私は何かとてつもないものを、Tさんから渡されてしまったのかもしれない。今はまだそれをどのようにすれば良いのかということはわからない、わからないのだけれど、あそこであの言葉を聴き、こそっと穴から見られた私は、もうそれまでの私でいられなくなってしまった。それまでの私ではなくなってしまった。そのことだけは間違いないようだ。
私は、もともと東京からせっかく来ていただくのだから、、、と先生や学生に対して、張り切って準備をしていた。でも彼らが訪れてくれたことで、私は先生と学生と共にTさんのお話を伺う機会を得て、結局は、自分自身が「外」へと連れ出されたということになる。「他者」を迎えるということは、結局は自分自身の「他者」を迎えるということなのだろうか。私はそんな「他者」を出会い続けていくために、あわ居という場所をやっているのかもしれない、そんなことを思う。
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