vol.3

田口純子さん/1985年生まれ

名城大学 都市情報学部 准教授

 

千葉県木更津市出身。2015年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了。博士(工学)。

専門は建築・まちの教育。学生時代から地域で愛される建物の保存や地域の魅力再発掘のための住民活動支援などに奔走。建物やまちが人の学びや成長につながる(ゆくゆくは建物やまちに返ってくる)ことに幸せを感じる。現在はネットやゲーム、バーチャルな環境と、リアルなまちづくりを結び、子どもや若者の新しい学びをつくる実践的研究に取り組んでいる。共著に『伊東豊雄子ども建築塾』(LIXIL出版、2014年)『共感覚から見えるもの』(勉誠出版、2016年)など。

 


対談タイトル

無秩序という秩序

 

無秩序な場所としてのあわ居についての考察を深めながら、個に寄り添う教育や、ことばを育てる営みについて対話的に探究します。

 

目次

・都市的な場所

・アナログとデジタルを往還する

・社会と世界をつなぐ

・身体・教育・ことば

・居場所をつくる


田口・・・田口純子さん  

岩瀬・・岩瀬崇(あわ居)

 

 

 

都市的な場所

 

 

岩瀬

まずは端的に、あわ居についてどのように感じられていますか?

 

 

田口

これはあわ居に限定した話ではないのですが、石徹白という場所自体がすごく奥まった所にありながら、とても都市的な場所だなと思っていて。過去に遡ってみれば修験者が集まってくる場所でもありましたし。物理的な環境とか位置的には山村のような場所なんですけれど、交流や知恵の交換が生まれる場だっていう点で、場所の性質としては都会的、都市的な場所なんだなぁと捉えています。歴史的、風土的にそういう場であるという認識によってもそう思いますが、感覚的にもそう思いますね。例えば人がすごくオープンであったり、外部の人を受け入れてくれる所などを見ても。白山信仰の場であるのと同時に、それが形を変えながらといいますか、例えばまちづくりとか、小水力発電とか、移住者の方が入られたりして、外部からの関心を集めているところをみてもそう思います。すごく外部の視点に晒されている場だなと。そして、それを排除するわけでもなく、オープンに受け入れる。何かが入ってきて、そこから何かを得て、また出ていくといったことも良しとする。すごく循環している場なのではないかなということを思います。

 

この感覚によって、石徹白にあわ居があることがすごく腑に落ちるものになっているような気がします。私があわ居にお邪魔した時、すべてを忘れてバケーションに来たというよりは、いつもの都市を離れて、また違う性質の都市に来たという感じがしました。知恵の集積や交換が起こっている場、そこに来たんだなっていう気持ちになりましたね。私たちは普段の体験をこうしてつらつらと喋るわけですが、それを概念化したり、ある言葉に当てはめたり、こういうことと繋がっているんじゃないかとか、共通性があるなぁと見つけたりする時に、なかなか一人ではたどり着きにくいと思います。例えば日常では、本を読み、本と対話をすることによって、言葉を見つけていくと思うんですが、あわ居の場合は、崇さんや美佳子さんと対話をすることによって、つらつらっとした体験をまずは発散して、それを概念や言葉に落として収束させていく。ちゃんと言葉にしていく部分があるかなぁと。

 

私があわ居で、体験的に面白いなと思ったのは、言葉って、その人が発した通りそのまま通らない場面があるというか、ちょっと違う意味で受け取られることがあるじゃないですか。それは悪いことじゃなくて、つらつらっと発散して、言葉に収束した時に、その言葉に対してそれぞれの受け取り方があって、ちょっとずれてまた次の話に発散していく。それが、あわ居の対話の特色だなぁと。発散して、収束して、ちょっとずれてまた発散してっていう流れって、知恵を作っていく運動だと思うんですけれど、そういうことが出来るというところが都市的だなぁと。いや、でもそれを都市的とするのは違うのかなぁ、、、、。あわ居で気づきを得て、自分の日常世界にまた戻っていくという感覚がありました。それはやっぱりバケーションではなくて、違う性質の都市に来たなぁっていう感じがしたんですよね。

 

 

岩瀬:

農村と都市という分類をした際に、厳密にはそうではないのは勿論大前提の上で、あえてざっくり言うとすれば、農村は円環的というか、同じ価値観の共有や、繰り返しといった部分を基盤に営まれている共同体のことを指すのだと思います。他方で都市というのは、違う秩序や枠組み、異質さのようなものを内包して生活が営まれていたり、外部にふれることの出来る場所としてそこにあるのだと認識しています。

 

 

田口:

もともとの都市が、異なる農村で、違う秩序を持って暮らしてきた人たちが集まってきた場所なのだとここでするならば、都市では、違いを認め合ったりとか、そこから学び合ったり、自分が習慣としてこなしている日常や秩序から少しずらした視点をもらえる、それが自分自身の学びにも繋がっていく、そんな場所だと考えられます。自分の精神的な成長があったり、自分が把握していた範囲の外側にいける。そういうところが、都市的だなって思ったのかもしれないですね。

 

 

 

 

アナログとデジタルを往還する

 

 

岩瀬:

先ほど、対話の中でのずれが、決して悪いことではないという点に言及して頂きましたが、それは良い意味での言葉の誤読が起きているとも捉えられると思います。場に出された言葉を、誰かが自分の世界の中で解釈し、自分の世界の話を展開する。そこから場に新たな言葉が生まれて、またそれを誰かが誤読する。そんな繰り返しをしていく。そうした行為は確かに今の文脈での都市的な要素を内包しているようにも思えます。

 

 

田口

なんていうんでしょうね、良い意味でアナログとデジタルが交錯していると言えば良いのでしょうか。言葉や概念に置き換えることって、すごく曖昧としたものを分節する、デジタルな出来事だと思うんですよね。例えば、日曜日を過ごして夜中の12時を過ぎたら、月曜日になっているといった形で、日常の中では色々なことをデジタルに受け取っていると思います。それは皆が共通して持っている言葉や概念といった、デジタルなものを使うことによって、生活が便利になっているということだと思うんです。加えて、学校のように、言葉や概念を正しく学ばなければいけない場では、あまり誤読することは求められない。でもあわ居はそういう場ではないですよね。何かを教える・教えられる場ではなくて、自分で探す場だと思います。一旦分節して、デジタルに起こしたことで、そこから広げたり、読み替えたりっていう誤読が起こる。そこからもう一回分節できない曖昧なもの、アナログになっていく。そんな運動が起きる場ですよね。

 

 

岩瀬:

面白いですね。おそらく社会生活を営んでいく上で、例えば青信号なら進め、赤信号なら止まれといった形で、外から記号の意味をあらかじめ設定して、その記号に適切に人が反応することで、コミュニケーションや秩序が円滑になっていくという部分があると思います。それはある種、人間の外側に秩序やシステムをあらかじめ前提し、そのシステムを適切に運用するために、固定的な記号の意味を人間が学習し、人間が適切にその記号を処理することで発生する反応なのかなということを感じます。逆に、あわ居での対話というのは、「こういう風に記号を処理してください」といった事前の設定がない、いわばシステムや枠組みがない中でのコミュニケーションが展開するという形になっているのかなということを感じました。こんなことは今まで考えたこともありませんでしたが(笑)

 

 

田口

そうですか(笑)。私はあわ居がそれを意図的にされているんだろうなって思っていました(笑)。井戸端会議のように、私も親しい友達とダラダラ喋るのが好きは好きなんですけれど、そこは経験の連続といいますか、アナログの連続なんですよね。一方、あわ居でのデジタルにする、言葉にするっていうのは、上から与えられるというネガティブなことではなくて、一回アナログをデジタルにする、つまり一回言葉にしてみることで、自分自身を俯瞰して見られる部分があると思います。今話している内容そのままを俯瞰して見られるようになるんですよね。で、そこからまた、つらつらっとしたアナログな話に戻っていく。なので、経験の連続でもないし、アナログの連続だけでもない、発散と収束の両方があって、そこがすごく良い所だなと思っています。アナログな情報に対して、「それってこういうことですか?」とか、「あの本にこういう内容が書かれていました」といった形で、ときどき振ってくれますよね。それは上から理解してくださいっていうことではなくて。

 

 

岩瀬:

発散というのは、硬直や緊張がない中で、とりあえず身体がバーっと情報を出している状態と考えると、良い意味で無秩序な状態なのかなというイメージを抱きました。一方、そうした散らかっているものに対して、一本の線を引くといいますか、そこに秩序を見つけるにあたって、言葉や概念といったデジタルなものが必要になってくるのかなと思います。つまり、内発的な流れに言葉が付与されるのが収束なのかなと。

 

 

田口

はい、そんなイメージですね。まとめにかからないといけない話だと、言葉で整理して、「今日の要点はこれとこれとこれでしたね」といった感じで、最後にデジタルで終わってしまうのかもしれない。でも、あわ居の時間はそうではなくて、無秩序なものに一度線をひくことによって、そこからまた発散していける。そしてこれは、学問の世界でもすごく起こっているなって思うんですよね。先ほど無秩序とおっしゃいましたけれど、現象ってすごく曖昧としていて、それを見たり知ったりして、ふとある時、「それってこういうことなんじゃないかな」とか、「こういう切り取り方ができるんじゃないかな」という所で、概念が生まれてくるんですよね。

 

それで、そういう概念や眼鏡を持って、もう一度無秩序な社会の現象に向き合っていくわけですけれど、元々持っていた概念とか、眼鏡に現象がぴったり合うわけではなくて、「思ってたのと違ってたな」という感覚がある中で、それをまた修正していく。無秩序の連続では、たぶん考えが深まっていかなくて、一度やっぱり秩序を起こしてみるんですよね。その秩序を持つことによって、もう一度無秩序を理解していく。そういうことの連続で深まっていくと思います。勿論そういう研究方法だけではないと思うんですけれど。自然現象の理解とか、定式や定理がある場合はすでにずいぶん眼鏡が磨かれているかとは思うんですが。社会とか地域とかコミュニティとか、もう少し人文的なものを研究している場合は、定式や定理になるまで磨ききれないというか。

 

 

岩瀬:

質的なものを研究していくにあたっては、研究者自身の直観や身体、世界といったものが、フィールドや対象を的確に捉えていくときの重要なファクターになるのかなという印象がありますね。これはおそらく研究者もそうなのでしょうし、あわ居で言葉を立ち上げるという時にも同じことが言えるのかなという気がしますが、そこでの確かさやエヴィデンスのようなものは、身体的に感知できる所にこそあるのかなという気がしました。アハ体験、ひらめきとも言えるのかなと思います。この流れで今思い出したのが、以前田口さんのご引率で、石徹白で大学生3人がフィールドワークをされた最終日に、あわ居で振り返りの対話をした時のことです。その対話の中で、僕が石徹白の話をしたんですよね。僕の主観で解釈している石徹白の話をしました。すると、一人の学生が、全く関係のない自分のサークルの話をし始めたんです。それが自分にはとても興味深かった。あの現象というのは一体何なのでしょうか(笑)

 

 

田口

(笑)。なんなんでしょうね、たぶんその学生が自分に持っている経験と、崇さんが話している経験が、あいだで結晶化したというか、何かが共通していたんでしょうね。「あ、それそれ」みたいな形で。その感覚がその学生の経験の中にもあって、、、。なんでしょうね。面白いですよね。

 

 

岩瀬:

その学生がサークル活動の中で、様々に葛藤し、無意識なところで身体的に感知し、蓄積してきた経験がまずはいくつかあり、それらが無秩序な状態で身体の中に潜在していた。その上で、僕が石徹白の話をしたことがトリガーになって、その無秩序なものに対して、そこに形を与えるきっかけが生まれた、形を与える構えが出来た、そういうことが起きたのかもしれません。

 

 

田口

先ほどの対話の中での収束と発散というプロセスにはないにしても、自分が抱えている無秩序なものに対して、別の話を聞くことで、秩序らしきものが生まれ始め、語りたくなるというようなことが、心の中で起きたのかもしれないですね。

 

 

 

 

社会と世界をつなぐ

 

 

岩瀬:

話を少し別の所にも移していきたいと思います。そうした無秩序と秩序、アナログとデジタルの往還が出来うる要素があわ居にあったとして、それが今の社会にどのような効用や作用を及ぼしていくと思われますか?

 

 

田口

大事な話ですね、、、、。今言えることから言いますと、あくまで私個人の感覚として、自分が内に感じている経験や秩序立っていないものを話せる場って、そもそもすごく少ない気がするんです。ある学生が、友達と深い話をするのが好きだと言っていて、車でよく旅行に行くらしいんですよね。車でみんな同じ方向を向いているから、面と向かって話すよりも話しやすい。他愛もない話から深い話に入っていくんだと言っていて。そうした答えのないことを延々と話し続ける時間って、今の社会においてはなかなか少ないように自分としては感じます。むしろ、答えのあることとか、答えに向かって話をすること、結論を得ようとして話している時間の方が多いですよね。結論のない話、それこそオチのない話は駄目だ、じゃないですけれど。

 

 

岩瀬:

答えのないものを喋るということが、今の社会ではあまり求められていない、ないしは、そもそもしなくても良いものとして処理されてしまっている部分があるのかなという印象を抱きますね。

 

 

田口

そうですね、、、、、、、。それを無駄に思ってしまうという所があるのかなぁ、、、。そもそも自分自身とか、自分という個を主語にして話す時間というのが、少ないですよね。「この地域は」とか、「課題は」とか、「解決方法は」とかが主語になっている。それはある意味、客観的視点を育てようという大義のもとに、自分自身を主語にして話す必要がないとされている面もある気がします。

 

 

岩瀬:

個人の感覚や世界が、大事にされることよりも、何か違うものが優先されている所があるのかなということを感じますね。今のお話は、最近読んだ『アートの根っこ』という本の中で、松本拓さんが書かれていた内容と通ずる気がしました。その本には、人間には社会の要請に応じて現れる「アイデンティティ」という社会の領域と、世界の問いかけに応じて現れる「私」という世界の領域、その2つがあるのだということが書かれています。そこで松本氏が指摘するのは、社会から必要とされ社会に居場所が見つけられたとしても、世界の問いかけに応じていなければ、世界に居場所を見失ってしまうし、逆に、世界からの問いかけに応じるだけで、社会の要請に応じなければ社会の居場所を見失うということが起きてしまうという事実です。しかしこれは決して二者択一の問題ではなく、社会の要請の中に、世界からの問いかけを聴くことは可能なのだと指摘をしています(*1)。勿論、そのことが非常に困難であることも指摘した上で。そして、今は社会に居場所を作ること自体はしやすくなってきたのではないかということも記述されている。ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)もそのあたりに関連する話だと思いますが、例え社会に自分の居場所を作れたとしても、本当にそこで、個人の世界や主観が担保できているかと言えば、必ずしもそうなっていないのではないかということを個人的に強く考えさせられました。社会と関わる時に、その人の身体が介在しているのかどうかという話とも言えると思いますが。

 

 

田口

なるほど。そういう意味では、あわ居での対話や語りというのは、世界と応答することや、個人の部分を取り戻す、そういう時間なのかもしれないですね。これは、学生たちと石徹白でフィールドワークをした時にも思ったんですが、地域の課題を解決しなければならないといった前提で地域に入っていくと、そこにはもう個人の身体がなくなっていて、大学に課された課題解決という社会的な役割の中に自分の居場所を落とし込まなければならなくなってしまう。けれども、石徹白の人達は、そういうことに散々晒されてきたという部分もあるのでしょうけれど、それこそ大学と地域のお決まりの型のような、「課題解決を受け入れますよ」といったパターンも取れる一方で、石徹白の人達はそういうことを望んでいないっていうのが、純粋に分かりますね。学生個人の身体で感じることや、その人自身の成長、その人自身の幸せといった所と、大学が地域でフィールドワークを実施するっていうことが、きちんと掛け合わされた状態がお互いにとっても望ましいんだなと、石徹白で感じたんですよね。既存の大学の教育システムの中では、個人の身体感覚を大事にするような教育プログラムがないので、石徹白のフィールドワークをコーディネートされている加藤さんとのミーティングの時間であったり、あわ居での時間で、そういう機会を頂いているなっていう感じがしますね。

 

 

 

 

身体・教育・ことば

 

 

岩瀬:

おそらく大学だけではないと思いますが、今の教育機関では、やはりそういう個人の身体感覚にアクセスするということが難しいのでしょうか、、、、、。

 

 

田口

そうですね、本来はそうではないと思うんですが、、、。少し前の話で、あわ居での対話においてのアナログとデジタルの往還みたいなものが、学問に似ているという話をしたんですが、その話をしている時に、自分の大学院時代を思い出していて。自分の研究室の先生とか、その周りにいる大人たち、先輩たちと、自分が感じていることも含めて、曖昧としたことを、たまに秩序立てて、そしてそこからまた曖昧な話へ広がっていくというような、そんな時間を持てたことが良かったなぁと。今の大学生って、もっと喋りに来たら良いのになぁって思うんですよね。みんな日々忙しいので、そういう時間が取れるのかはわからないんですけれど。自分語りを含めた発散と収束みたいなものを、もっと大学にいる人とか、そこに関わっている大人たちとしたら良いのになぁって、たまに思うことがあるんです。大学というところが社会にどういう人材を輩出していくかと考えた時に、社会に求められる知識やスキルや態度を吸収する場としてだけでなく、世界と応答するっていう個の部分を、きちんと担保できる場であったら良いなぁって思うんですよね。

 

 

岩瀬:

私の好きな教育学者で矢野智司さんという方がいらっしゃるんですが、彼は、「発達としての教育」と「生成としての教育」という言葉を使われています。「発達としての教育」は簡単に言えば、社会化の部分への働きかけですよね。共同体の成員として、この年齢になるまでにこれだけのものを身につけておく必要があるという観点を評価の尺度として用いる教育。ルールの習得などもこれですね。一方で「生成としての教育」は、外部との交感や、超越的なものに触れること、有用性からはずれたところへ働きかける教育です。想像力や創造性に関わる部分の教育だと僕自身は認識しています。そして日本の戦後教育は、社会化=「発達としての教育」の論理を中心に展開してきたと矢野氏は述べています(*2)。今の社会において、矢野氏の述べる「生成としての教育」を取り戻していくことの必要性を感じますね。生命としての人間に寄り添うといいますか。

 

 

田口

先ほど、今の社会の中で、あわ居がどんな役割を担っていけるかというご質問がありましたが、私自身は大学に対しても同じことを感じているのかもしれません。大学という場が社会に対してどういう役割を持つかということにも通じているような感じがしますね。

 

 

岩瀬:

先ほどの学問のお話ではないですが、無秩序と秩序の往還を繰り返していくことは、いまだ形になっていないもの、今はまだ出てきていないものを探索する構えがあって、初めて出来ることだと思っています。そうした構えが教育にも必要なのではないかということを私自身は感じています。例えば、教師自身が、今の自分には理解できない価値観や、理解できない生徒の様子、異端なふるまいを前にした時に、それすら含めながら、それすら取り込みながら、教育の場を作っていくこと。無秩序さや野性、異端さも、教育の場で扱っていくことが必要なのではないかということを思います。

 

 

田口

そうですね。反対に質問してみたいんですが、あわ居ではそういう野性や異端さを扱っているなって思われる時はありますか?

 

 

岩瀬:

うーん、そうですね、、、、。少し話がずれてしまうかもしれないですが、この所、あわ居の時間を体験された方に、あわ居での体感やそこで起こった出来事についてのインタビューをしています。あわ居での対話を通しての内面の変化であったり、日常に戻ってからの変容の話も含めてインタビューし、その内容をテキストにしている。その行為をする中で立ち上がってきた自分の感覚として、これは個人の世界や声を、形に落とし込む行為なのではないかということです。

 

例えばいわゆるアーティストや文学者というのは、無秩序のものを秩序化する、つまり形にする技術を持っている、またはその技術を意識的に磨いている人だと思います。一方で、今の教育システムのなかでは、そういう技術を学んできていないこともあってか、無秩序なものや声自体はその人の中にありながら、それをどう取り出して良いのか、どう形にしていくのか、その方法がわからない人がとても多いのではないかという印象を持っています。そこを一緒に形にしていくと言いますか、個人の声や世界を、一緒になってひとつのテキストというモノに立ち上げている、そんな感覚が今自分にあるんですね。先ほどの野性や異端さという部分には直接的には関係しないかもしれませんが、ひとりひとり異なる声を形にしていくということの面白さを感じていますし、それがとてつもなく重要なことである気がしています。形にしないと社会や歴史の上で、それらはなかったものにされてしまうと思います。あとは、抑圧ではないですが、本人すら自分の声を忘れているぐらいの形で社会生活を営んでいる場合も多い気がしています。「自分で感じたり、感じたことを言葉にして良いんだ!」ってはっとする方は多いですね。

 

 

田口

確かにそうですね、いいのかなぁ、、、、みたいな感覚はあるかもしれないですね。ひとりひとりの主観的な声をテキスト化する、一緒に作る、その行為自体も暫定的な秩序を与えることですよね。で、それをまた読み返して、「あ、私ってこんなことを考えていたんだな」って。自分自身が知れることも楽しみですし、またそれを他の方が読んで、うれしい誤読が起こることもあるかもしれないですし。そうだとすると、先ほど技とか技術っておっしゃっていましたけれど、無秩序なものにかたちを与えるやり方っていうのは、確かに訓練されていないですね。今自分のことを振り返っていたんですけれど。

 

 

岩瀬:

これに関連する話で、ほとんどの学校では国語を学びますよね。国語は当然のことながら、言葉に関連した教科なわけですが、国語では学べない「ことば」の領域があるなぁと自分自身は感じています。「自分のからだは何を感じているか」「わたしはどう世界を捉えているか」といった部分に関わる「ことば」の領域。そこを耕していくことは、おそらくそれはイコールで、わたしという存在の謎や、いのちとうまく付き合っていくっていうところに繋がってくるのではないかと思う。そうした内なる「ことば」との付き合い方について、少なくとも僕の経験ではあまり学校教育の中では学習してこなかったなぁと思います。その意味では、あわ居は、わたしの中の「ことば」に気づき、寄り添うという意味での言葉の教育をしているという側面は多少あるのかもしれないなぁと最近思いました。

 

 

田口

正解を読み解けるようになるっていう練習はたくさんしているのかもしれないですけれど、正解がないことを綴るとか、形にするとか、そういう訓練はたしかにあまりないかもしれないですよね。今のお話も含めて、世界と応答する自分を取り戻したり、内的な経験に形を与えながらわたしと付き合っていくっていうのは、今の社会でどう必要なのかなって考えたときに、、、、、、。なんでしょうね。その人なりの物差しができるといいますか。自分の物差しと、社会の居場所と両方を持って生きることが出来るようになるんでしょうかね、、、、。いまの変化のスピードが速い、不確実といわれる世の中で、直感や、自己の内に磨いた真善美にしたがう判断の効用も論じられてはいますが、私自身は、それがどう良いのか、どう役にたっているのかがあまり言葉にはなっていませんね。

 

 

 

 居場所をつくる

 

 

田口

反対に聞いてみたいのが、あわ居に来られる方は、どういうことを求めて来られて、どんなことを得て帰っていかれるんですか。

 

 

岩瀬:

そうですね、、、、。少し話がそれますが、居場所というテーマは色んな領域で議論されているものだと思います。自分は居場所というのに関して、「その場所を介して、新しい自分の秩序や有り様を自分で作ることが出来る場所」だという風に認識しています。それまでの自分ではない自分に更新される瞬間をつくり出せる場所ということですね。ですので、その場所にずっといられるとか、今の自分を今のままで包括してくれる場所が居場所なのではなく、確かな安心感の中で自分を見つめたり、取り戻したり、越境したりできる場所、そんなイメージを居場所という言葉に私は持っています。

 

で、そこを離れて、また社会に戻っていくわけですが、もうその時には、新たな有り様やフレームを獲得しているから、それまでとは違った視点で周りの環境を見れるし、周りとのかかわり方も違った形で展開していけるようになっている。その中でまた滞りがあった時には、その居場所に行けば、新たに更新が出来るといったような形でいつでも求めることが出来る。そんな居場所として、ひとつあわ居に来てくださっているのかなということは思いますね。もしかすると、そういう居場所での行為や効用が、社会にとってどんな価値があるのかっていう論点で見るよりも、その個人が生きやすくなったりとか、世界と応答している生活がその人なりに成立しているっていうこと自体が何か大事なことなのかもしれないですね。そこに社会的な価値がどうとかっていうのはもしかしたら論じられないのかもしれないということを今ふと思いました。

 

 

田口

あわ居の話ではなくなってしまいますけれど、今岩瀬さんがお話された話っていうのは、私が大学において学生一人一人になってもらいたいと思う姿に近いかもしれないですね。社会によく適合できることも必要なことなのかもしれないですけれど、自分で自分の居場所を作っていく、安心してそれを作れる場があわ居であったり、作る練習をするのが大学であったりするのかもしれないですね。そうした学生が一人でも多く社会に出ることによって、、、、、。何か良いことが起きるんじゃないかなぁ(笑)

 

 

岩瀬:

(笑)。アートなんてまさにそうですが、それがあることで何の意味があるのって問われても、それは作った側にも定義ができないし、まぁわかりません、と(笑)。それがどう役に立つか、どう社会に有用なのかはわからないけれど、とりあえず一人一人が世界と応答しつつ、かつ社会とも接続出来ている、その両立が出来ている人が、一人でも多く社会に居るっていうこと自体が、何か大事なことなのかもしれないですね。

 

 

田口

最初、石徹白やあわ居の性質を都市的だという話をしましたけれど、今私たちが日常を営んでいる都市っていうのは、自分を更新する場であったり、自分の枠組みをはずす場ではなくなっているのかもしれないですね、もしかしたらでっかい農村みたいな感じで。こんなこと言ってると都市学者に怒られるかもしれないですけれど(笑)

 

 

岩瀬:

都市が担ってた機能が、都市から損なわれつつあって、それがなぜか石徹白という山村にあるという(笑)

 

 

田口

そういう失われつつある機能をどこかでカバーしているということなんですかね。日常的にルールに従って生きるとか、社会の要請にしたがって生きるっていう部分の比率が大きいなっていうのはありますよね。

 

 

岩瀬:

そこに対しての働きかけがあわ居を通じて出来たらなというところを、今日再確認することができました。今日はありがとうございました。

 

 

(*1)『アートの根っこ 想像・妄想・創造・捏造を社会へ放つ/青木惠理子編著』

(*2)『贈与と交換の教育学 漱石、賢治と純粋贈与のレッスン/矢野智司』

 

 

ダイアローグ実施日:2022年5月17日