岩瀬崇

岩瀬崇 · 2022/11/21
私にとって、あわ居というのは一つの窓なのかもしれないなということを時々思う。あわ居を営むことやここで暮らすことそれ自体が、決して容易にはつかむことが出来ないこの広大な世界というものに対して、自分なりの窓をつくることになっているのかもしれない。固定された場所に住み、ここで仕事を作り、他者を迎え入れること。それはある側面から見れば、極小的で、限定的な条件の中に、自らの生を留めておくという風にも捉えられるのだろう。
岩瀬崇 · 2022/11/21
今年の9月に、私が大学自体にゼミでお世話になった田渕先生が、ゼミ生5名を連れて、石徹白に来訪された。目的は、石徹白で聞き書きを実施するためで、私たちは、現在石徹白地区の地域おこし協力隊である加藤さんと共に、そのコーディネートをし、また宿泊についてもあわ居で担当をした。...
岩瀬崇 · 2022/11/13
あわ居がどんな場所なのかを一言でいう事はとても難しい。けれどもあえてそれをするのであれば、私たちはあわ居を通して「詩」を作っているのではないかということを思う。...
岩瀬崇 · 2022/11/11
私は「道」というのは、いつでもそこにあるものではなく、ある瞬間に立ち現れては、すぐに見えなくなってしまう、そんな類のものなのかなと思っている。それはおそらくその人自身の中で、ある種の啓示のようなものとして感得されることでしか、掴み切れないものだ。目に映るものではない。...
岩瀬崇 · 2022/11/10
あわ居を営むことの醍醐味はいくつもあるのだが、その中のひとつが、「社会をつくる」という感覚が実感できていることだと思う。社会などと書いてしまうと、国家であるとか、システムであるとか、そうした大きなものをつい想定してしまいそうになるし、それはそれで紛れもなくひとつの社会なのだとは思うが、私がここで述べようとしている社会というのはそうしたものではない。これは人類学者のレヴィ=ストロースによる「真正な社会」と「非真正な社会」という分類とおそらく近しい感覚なのだろうと思う。
岩瀬崇 · 2022/11/10
私はもともと『教育』と「芸術」の間くらいに根本的な興味がある。 近現代の公教育が射程にいれてきた(いる)のは、社会や国家をまずは前提にして、その成員として「人間」はどのようにふるまうべきか、どのように育まれるべきかを上から設定し、然るべき教育的介入を教育機関において施していくことだと思う。システムや国家的な戦略を円滑に遂行していくに際しての「課題」を設定し、それを的確に遂行していくための「人材」を育成し、供給する、そんなイメージ
岩瀬崇 · 2022/11/10
人類学者のヴィクター・ターナーは「境界状態(リミナリティ)」という概念を示した。「境界状態(リミナリティ)」を簡単に説明すれば、「これまでの生き方には戻れないけれど、これからの生き方が見えているわけでもない」そんな状況だと言える。曖昧でどっちつかずの、不安定な状態。こうした「境界状態(リミナリティ)」は、子ども、おとな問わず、人生の大事な節目で不可避的に
岩瀬崇 · 2022/11/10
あわ居は、芸術、教育、食、ケアリング、ツーリズムなどの領域が、重層的に絡まり合って営まれており、近現代の分類から見れば、よくわからない施設だと思う。 おそらく近現代という時代は、細分化された領域ごとに「絶対性」を措定し、各領域が各々の「絶対性」に向けて高度化していくことが全体としての社会に大きな価値を寄与するのだと、そう考えられてきた時代なのだと
岩瀬崇 · 2022/11/10
2020年の4月くらいに自分自身の頭を占拠していたのは、今日における「聖地」とは一体なんだろうということだった。かつてそこが聖地として崇められていたとしても、建築物なりモニュメントが客体的にあるだけでは、そこはもはや聖地たりえないのではないかという、そんな問題意識があったのだと思う。そんなことを思案する中で出会ったのがフランスの「テゼ共同体」についての論考だった。テゼはキリスト教の教派を越えた修道院であり、
岩瀬崇 · 2022/11/09
はやいもので、あわ居を営みはじめてからもう4年目になる。その間、新型コロナウイルスの影響を多分に受けつつも、だから故に見えてきたことがあり、改善できたことがたくさんあった。様々な出会いがあり、変容があり、多くの学びがあった。私は、このあわ居という場所をはじめて本当に良かったと心から思う。...