【展示作品紹介②】
こんにちは、あわ居の岩瀬崇です。先日、あわ居本棟の客室に展示している阿部海太さんの絵画作品についてご紹介をしましたが、今日は同じ客室に飾られている写真家・加納千尋さんの写真作品についてご紹介いたします。加納さんは阿部海太さんのパートナーであり、古道写真室を主宰されています。ちなみに古道写真室のロゴは、あわ居主宰の岩瀬崇が揮毫したものとなります。岩瀬はこうした書の仕事もやっていますので、是非お気軽にお問合せください。
私は昨年に郡上市内で開催された加納さんの個展に足を運び、複数の写真に目が釘付けになりました。そのなかのひとつが本作です。本作を含め、あの時に目にした写真には良い意味での違和感があったのです。リアルタイムではとても整理ができなかったその違和感について、後日整理をし、加納さんにメッセージをしました。今日はそこでお送りした内容について、一部修正したものをご紹介できればと思います。
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展示された写真群を一瞥して喚起されたのは「不自然さ」という語句であり、それの意味するところを探ってみる。言うまでもないが、私は目の前にある写真群それ自体、あるいはそこに切り取られた風景に対して、例えばそれが人工的であるとか、作為的であるとか、そうしたことを感じとっているわけではない。それらは徹底して「自然」なのだ。しかしその「自然」がただだた「不自然さ」を突きつけてくる、この奇妙な並立構造を紐解く鍵は、その「不自然さ」に、停止や静止、中断、あるいは宙づりの感覚が付随している点があるように思われる。
つまり、そこで喚起されている「不自然さ」、その発生の土台には、私が普段生きている日常、習慣、秩序といった無自覚のフィルターがあって、それらとの誤差や差異、距離において、私は「不自然さ」を覚えているようなのだ。言語により環境世界を分節し、なるだけ負荷なく、ノイズなく、効率的になるよう円滑化された日常世界がまずはあり、それに対する異議申し立てとして「不自然」な感覚が、写真群により私に喚起されている。こうした現象の発生は同時に、普段私たちが生きている時間世界の外に、それとはまるで異なる「時」が確かに存在することを私たちにおそらくは立証している。「いまここ」とは異なる不確かで不気味な未知の世界との接触がそこにはある。このように捉えた時に、当初目の前の風景や写真に感じた「違和感」は同時に、これまで自らが生きてきた日常世界に対する違和でもあったのだという事実に気付かされる。その自覚においてはもはや、これまでの世界に安住することの方こそが困難となる。違和となる。だからこそ既知の世界からの跳躍や脱出を心身は知らぬ間に試みて、気づけばそれを達成しているのかもしれない。
その意味ではここでの「違」は、実は「違」ではなく、「異」であるのかもしれない。「可能性としての写真」という語句が私にはふと想起された。「このような世界もありうる」という、可能性としての写真。開かれそのものとしての写真。そうした可能性=未知なるものとの出会いにおける驚きや戸惑い、よろこび、おそれ。そうしたものを含みながら、しかし容易にはつかみきれない、複雑で分節不可能な情感がここには確かにある。それらをたただだそれ自体として、いわば無為において享受している態度そのものを提示した写真群。その享受においてこそ人はほんとうの意味で、これまでとは異なる存在様態へと移ろいでいくことができるのだろう。
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駄文を垂れ流しましたが、あわ居にお越しの際は、沈黙に身をゆだねながら、写真が喚起する「異」の世界を是非ご体感いただければ幸いです。
