〈異〉と出遭う場所

 

 

これまで当たり前だと思っていた世界、そうに違いないと思い込んでいた現実、こうでしかありえないと思っていた他者との関係性が、少し揺らいだり、ほぐれたり、あらたになったりする、そんな出来事を偶発させる装置、あるいは技法。これまで築いてきた世界の輪郭の、その外側に私たちを誘ってくれる体験。それがアートだと私たちは考えています。その意味で、アートとは、日常的ななじみの世界から自らを切断するような、そんな〈異〉との出遭いを生み出す技法や体験だと言えるのではないか、私たちはそのように考えています。

 

となると、ここでのアートは「中断」の契機を生み出すものだと解釈することが可能です。それまでの日々の安定性を宙づりにし、それらに亀裂をもたらすもの。しかし亀裂や中断などと書くと、そこには痛みが伴うような気がして、少し怖いような気もします。

 

けれども日常の安定性が、実は凝り固まったものでしかなく、そこに惰性や息苦しさを感じているとしたらどうでしょうか。それらが抑圧や疎外を含んだところで形成されているとしたらどうでしょうか。文化や環境から一方的に付与された規範や常識だけで成立しているものであったとしたらどうでしょうか。自分が知らない間に、小さい檻の中に閉じ込められて、本来もっているはずの生命力や、生き生きとした感受性が発揮されない窮屈な状況に陥っているとしたらどうでしょうか。

 

こう考えていくと、亀裂や中断の契機を生み出すものとして把握されるアートには、ポジティブな要素が含まれていることに気付かされます。これまでの安定性に亀裂が入り、自明視していた世界を中断させられること。それは逆に言えば、未だ見えていなかった世界の広大さが私たちにありありと実感され、この現実においての、生の存在可能性がぐんと押し広げられる出来事でもあるのです。

 

これまで生きてこなかった存在様態、築いてこなかった他者との関係性、見過ごし排除してしまっていた世界の豊饒さ。そうした外部をありありと、目の前に現前させ、実感させるもの。新たな生の始まりを私たちに予感させるもの。それがアートだと言って差し支えないでしょう。もちろんそうした出来事を周到に排除したり、ただの「違和感」として消化してしまうことも人間は出来てしまうわけではありますが。

 

抑圧という語句でそれを表現するのかは別として、現代に生きる私たちは、社会や文化からの様々な制限や、知らぬ間に身に染みついてしまった初期設定や習慣の中で、窮屈な生き方や、疎外的な他者との関係性、状況への過剰な適応を余儀なくされている部分が少なからずあるように思います。

 

そうした現実の中で、それでもなお私たちがよりひらかれた生を望むとき、そこではあらゆる前提や価値観をいつでも括弧に入れながら、生の有り様を、世界との向き合い方を、他者との関係性を、いつでも批判的に捉えながら、実践的に目の前の状況を変革し続けていく行為が必要になるのだと思います。その過程で、新たな自分、新たな世界、新たな他者に出遭い続けていくこと、出遭い直していくこと。既知の世界をとびこえていくことが重要なのではないか。私たちはそのように考えています。

 

そこには深い歓びと共に、危うさが同居しています。なぜならこれまで拠り所としていた場所から、自らをあえて引き離すという側面がそこには少なからずあるからです。けれどもそうしたリスクや脆弱さを抱えながら、未知の中を希求し続けていくからこそ、自らの生や他者との関係性は根源的なものとなり、瑞々しい世界を生きていくことが出来る。固有の時間を生きることが出来る。かけがえのない存在として主体化していくことができる。そこにこそ解放や自由といったものが予感されるのではないでしょうか。

 

私たちは、あわ居をどのように紹介すれば良いものか、オープン以来ずっと考えてきました。これからもずっと考えていくのだと思います。そうした中で、おそらくあわ居というのは「〈異〉と出遭う場所」なのではないかという考えに今は落ち着いています。

 

日常的ななじみの世界や、そこでの習慣、世界や他者との関係性。それらにゆらぎがもたらされるような、それらがほぐされあらたにされるような、そんな「異和感」を体験する場所。これまでのあり様を堂々と一時「中断」し、自分自身や他者、ひいては世界と出遭い直す場所。生を吟味し、より繊細で深淵な世界との関係性をつくっていくためのきっかけを得る場所。それがあわ居です。

 

あわ居での〈異〉との出遭いを通して、よりひらかれた生へと、新たな存在様態へと、繊細で入り組んだ他者との関係性の構築へと、新たな世界との出遭いへと、かけがえのない生の展開へと、よりよき生へとつながる何かがもたらされること。そんなことを願いながら、私たちはあわ居を営んでいます。

 


岩瀬崇:

1987年岐阜県大垣市生まれ。あわ居主宰。言語を超えたもの=「ことば」を探究テーマとして、あわ居の運営、書作品の制作、書籍の刊行など、ジャンルや領域を跨いだ活動を展開している。著書に、『詩と共生』『ことばの途上』『ことばの共同体』がある。 https://takashi-iwase.jimdofree.com/

 

岩瀬美佳子:

1981年千葉県出身。あわ居主宰。分野を超えて自らの表現を辿り、料理に触れる。現在は食を通した可能性に目を向け、また、モロッコでの滞在中に感じた豊かさの追求から「KAYANN」としても活動。様々な関心における表現の在り方を探究し、地域のソーシャルワークにも携わる。