「ことばが生まれる場所」

体験者インタビュー

vol.8

岡野早登美さん 1988年生まれ 2022年7月に参加


 

ーさとみさんにとってあわ居での時間はどのようなものでしたか?

 

すごく必要な時間だったなぁと思っていて。一人で行けて本当に良かったなぁって思いますね。今回は誕生日プレゼントということで、夫から、あわ居での時間をプレゼントしてもらったんですけれど、1歳と4歳と6歳の息子がいる中で、まあ上の二人はともかく、1歳の子を置いて行くことに、最初はずっとそわそわしていました。

 

子どもが1歳ぐらいの時のお母さんの状態って、肌身離さず、長い時間赤ちゃんと一緒ですよね、妊娠の期間も含めれば2年くらい。物理的に一人の時間とか、自分の軸での時間の流れ方ってなくって。そんな中で、やっぱり精神的にも色々ホルモンのバランスもあって、自分一人では自分のメンテナンスがしづらい環境に置かれているなって思っていたり。家庭内だけだとちょっと限界があるよなぁっていう状況だと思っていて。 母親個人の人生の流れとしても、家族っていう単位での変化の大きさにしても。チューニングすることが多すぎて私はいっぱいいっぱいでした。

 

ただ、いろんな所でめまぐるしく変化が起きている日常の中では、なかなか止まれないから、メンテナンスを諦めていた所もある。普通に何も意識しなかったら、止まらないままに、日々をとりあえずこなして、こなしてっていう風になるのが、ほとんどなんじゃないかって思っています。その中ですごいメンタルが鍛えられたり、誰かからみて素敵なお母さんっていう風に映ることがあったとして。それが出来るお母さんってけっこうすごいなと思っています。赤ちゃんといると、それだけで「あぁ幸せだなぁ」って思ったり「もうこの他に何にもいらないんじゃないかな」くらいに思ったりすることもある。でも一方で、「これで良いのか、これだけで果たして良いのか」って思うこともある。「この子をとったら私じゃなくなっちゃう」みたいな感じというか。子どもだけが自分の存在を肯定してくれるっていう風にもなりかねないのを不安に思ったり。

 

そういったことを思っているタイミングで、あわ居に行って、家族ではない人に、今の自分が感じている感覚を伝えて、それがどういう風に映るかを伝えてもらったり、あわ居の本棚の本に手を伸ばして、自分の奥底にある願いは、そこにあるのかっていうことが読み解かれていったりして。すごくハッとさせれられた時間だったなぁって。ちょっと立ち止まる時間をもらえたことがすごく良かったなぁって思いますね。

 

 

 

―母親とか、妻といった役割から離れた時間だったっていう部分もあるのでしょうか?

 

 

そうですね。離れていたと思いますね。個としての私を、まるっと受け入れてもらった場だなって思っていて。「〇〇君のお母さん」とか「旦那さんの家族」っていう所をきっかけにして人と繋がることが、移住してからすごく多かったので。そうじゃない出会い方も大事なんだなってすごいハッとさせられたというか。あわ居では、自分の感覚というか、自分はこういうことをしているのが楽しいなとか、こういう本が気になるなとか。そういう個としての自分の特性や在り方みたいなものだけから、そのまま交われたなって気がします。その時間がすごく居心地が良かったし、身体がよろこんでいる感じがしました。

出産をすると、赤ちゃんのお母さんとして居る時間が多くなります。いつも抱っこしていたりとか、常におなかにいたりとか、常に赤ちゃんと一緒の私という感じ。私だけで何か動くとか、私の軸でどこかに行くとかそういうのはあまり、、、。自由にしようとしても、思い通りにいかない。本当は行きたいけれど、「この子がいる中で、あそこに行くのなら、この子と家にいた方が穏やかかなぁ」って天秤にかけて、行かなかったりとか。穏やかに、この子といる時間が一番っていう感覚に、自分は産後なりやすいのかもしれない。それが決して悪いとは思わないんだけれど、ずっとそういう感覚ばっかりだと、だんだん自分の感覚がボケていってしまうような気もしていて、それが怖いなぁっていう不安はある。それでもやっぱり赤ちゃんと一緒だと、私は子どもと自分とを分けて考えられないし、あまり考えようとも思わないんだと思います。

 

 

 

ーなるほど。そうした普段とは全く異なる状況に置かれたあわ居での時間の中で、そういう中だからこそ見れたこととか、立ち上がってきたことはありましたか?

 

 

、、、、、、、、、、、。うーん。、、、、なんだろう、、、、。今もこうやってだっこしてますけど、あの時は、物理的にも軽かったし、、、、「あぁ、なんかなんでも出来る」みたいな、、、、、、。少し早めにあわ居に着いて別棟にいさせてもらった時に、だんだんとひとりモードの自分になってきて。そこで過ごした時間はすごく良かったんですけど、崇君から「対話の時間で話したいことがあれば、何かメモとかメッセージで共有してもらえたら」っていう風にその時に言われても、その時は、「自分の抱えているものとか、滞っている部分って何かあるかなぁ」とぼんやりとした感じだったんですね。その後、本棟にチェックインをして、最初にお茶を出されて少しお話した時にも「最近どんな感じですか」っていう風に聞いてくれましたよね。でもその時も、特に何もそういうものは出て来なくて。

 

それで、食事と対話の時間が始まって。普通の一泊の一人旅行だったら、素敵な宿で、おいしいもの食べてみたいな感じで、それで終わるんだと思うんですけど。子ども含めていろんなものがとれている身軽な状況の中で、いろいろと崇君と話をする中で、ひとりでは潜り切れなかったところ、自分の深い所まで見にいけた気がします。そういう深いところまで潜る環境を作ってもらっていたのかもしれないですね。自分の考えたいことに絞って話が出来たのかなぁ。チェックインの時点では、ただ私が一人の時間が欲しかっただけで、それだけで満足くらいな感じもあったんですよね。素敵なお宿とおいしいご飯で、みたいな感じで、それだけで満足みたいな(笑)。でもやっぱり蓋を開けてみたら、自分や家族だけでは気づけなかったぐつぐつしていた滞りが溢れてきて、手帳いっぱいに言葉を書くことになりました。それが一番のおみやげになったなぁって思いますね。

 

 

ー空間になじんだり、食事や対話が進む中で、だんだんと話す状態に整っていったという感じなのでしょうか。「あ、ここが実はひっかかっていたんだ」とか「あ、ここに自分は何かを感じているんだ」っていう部分へのフォーカスに、段階的に移っていったといいますか。

 

 

そんな気がします。0歳から1歳児を育てている時って不思議な感じで、自分のことを大事にしたい気持ちもあるけれど、自分のことだけを考えているのも気持ちが悪い気がしてしまって。だから、自分のことを直接考えたりする機会を設けられると、「いやいや私は今そんなことを考えられるフェーズじゃないというか、今のままでOKなんだ」っていう風になりがちな気がする。たぶん普通にお茶したり、子どもも連れて、家族と一緒にとかであれば、仮に話をするにしても、「まぁ、これは自分で解決すれば良いと思っていることなので」って言って、解決策が自分で見えているっていう風にしていたと思うんですけど。

 

でも実は本当は自分の中では違った角度からの視点が欲しかったりしている部分があって、そういうものが崇君や美佳子さんとの対話の中でチラッと見えたときに、「何それ、すごい気になる、もっと聞きたい!」っていう風になったんだと思う。すごい食いついた部分があった。「え、そういう見方もあるの??」みたいな感じで(笑)。実はもっと知りたい自分が奥底にいたっていうことですよね。自分は割と自分の中で考えるのも好きなタイプだから、ある問題に対して「結局はこうなんじゃないの?」って、自分の中で一周して結論を出した気でいた。自分でかなり考えてこの答えに至っているから、それはもう終わったこととしていた。自分が作った仮説を信じすぎた部分があったのかもしれない。

 

 

ー「これはこういう風に解釈すればいいんだな」っていう風に、さとみさんの中である程度固定されていたものに対して、あわ居での時間を通して、解釈に違う視点が出てきたり、異なる光の当て方が生じたりっていうような、ある種の「ほぐし」が起きたということでしょうか。

 

 

ほぐし、、、、、そうですね。固まっていた何かがほぐされたっていうことか、、、、そうかもしれない。確かに。そうですね、ほぐされた感じ。あ、そういえば私この間無重力マッサージやってきましたよ、温泉で(笑)。その時も、「私は全然凝ってないから、全く必要ない。マッサージなんて全然好きじゃないから」って感じだったんですよ。でも、「すごい気持ち良いよ」ってみんな言うから、やってみたら「確かに私、結構凝ってたかも」って(笑)。たしかにやったら軽くなったわっていう(笑)。そう、自分でも凝ってるってあんまり自覚ないんですよ。毎日こんな風に抱えてだっこしておんぶしての身体的な凝りだけでなく、色々な人と出会えば色んな感情が動いたりとか、内側で色んな筋肉も使っているはずですけど。

 

 

 

ーそうしたある種の思考のマッサージがあわ居であったとして、特に印象に残っているエピソードはありますか?

 

 

三つくらいあって、一つは崇君が話してくれた「事象は生ものだと思う」っていう言葉ですね。「生もの」っていう表現の仕方が、私の中ではっとさせられたなと思っていて。事象って向こうから働きかけてきたり、すごい重なって起きたりする、予期せぬものだと思うんですけど、自分の予期の範疇を超える出来事が次々に起こるタイミングが生活の中であったりして。その変化にけっこう戸惑うことが多いなぁって思った時に、でも変化に戸惑い続けることが人生なんじゃないかって。時はいつでも流れていて、変化していくものっていうか。前はあんなにあんなに思っていたことが、今はこれだけみたいな、その繰り返しでしかないって言うんですかね。そういう変化を受け入れたり、変化を許す、自分が守りたいって思っていたものにしがみつくんじゃなくて、環境が変わったら、それにちゃんと対応して変わりたいっていう思いが、ちょうどあの頃高まっていた時期で。

 

その頃起きていた事象に対しても、ちょっと俯瞰してみる時間が、あわ居の時間にあったんですよね。それは自分の中で新しい視点が芽生えたタイミングで。この感覚だと割と生きやすいなって思ったんです。起きてくることに対して抗っても無駄な場合もあるし、抗えば良いってものでもないけれど、でも何か起こった時にちゃんとそこに応えてから、流されるようにしようってあわ居の時間の中で思えた。ただ受け入れて、ただ流すんじゃなくて。そこがすごくしっくりきたんですよね。生ものだから、その都度の事象にも鮮度があって、そこを逃してしまったら旨味も抜けてしまう。どうせだったらおいしいうちに、みたいな(笑)。そういう感覚をすごくもらった気がしていて。ハードル高かったりとか、調理するのが「ちょっとなぁ、、、」って時は、億劫になったりすることもあるけれど、でもそれを調理したらすっごいおいしい珍味かもしれないとか、自分がそれを食べたらすごく自分にとっての栄養になって、もっと元気になるかもしれないなっていう感覚が芽生えた。それが出来れば、すごく自分が豊かになるなって思いました。誕生日にもう一つ、自分が大きくなる、自分を肥やすものを受け取ったなぁって思います。

 

二つ目は、美佳子さんがされた心の純度の話です。色んな人との出会いがある中で、何を自分の中に受け入れていくのかっていう話をしていて。自分に必要なものとそうじゃないものの見分け方というか、自分の守りたいものとか、愛したいものを見つけていく時に、「どんなことを大事にしているんですか?」って私が聞いた時に、美佳子さんが「心の純度を上げておく」っていうお返事をされました。自分の純度がちょっと下がるような感覚の場所とか物は意志を持って離れたりとか、あとは食べてるものの影響も大きい気がするとか、あとは余計なことをしないとか。私もそういう心の純度を大事にしたいなぁって思いましたね。丁度今、岡野家は家の物を断捨離中なんですけど、もらったから取っておこうじゃなくて。そういう物理的なところもそうだし、人との関係性もですよね。そういうところも意識してやっていけたらいいなぁって思うタイミングでした。

 

三つ目は、表現のあり方の話で。あわ居本棟が、宿泊と食事だけでも本当に本当に素晴らしいのに、そこで完成していると思っていない。対話をしてはじめて表現として成立するってお話をされて。それがすごく素敵だなって。建物として、レシピとして完成させてそれで終わりではなく、そこに人や対話が加わってはじめて完成するっていう。場づくりとか対話の中にしか出せないその人らしさがあるっていうか、それこそ表現なんだなって。自分と対峙した人や環境、全ての「今」を活かし響かせて表現し続けていく在り方。それを体現している崇君と美佳子さんに大きな感動を覚えました。表現という言葉にただただひけめを感じている自分の何かを溶かしてくれた気がします。

 

 

ーそういったことがあわ居の時間にあった中で、日常に戻られてからの変化などはありましたか?

 

 

生(なま)の事象に対しての反応の仕方は、すごく変わったなぁっと思っていて、すごく納得感を持ちながら、いろんなことを受け止められるようになっている気がしますね。ひとつの事象があった時に、都合の良いものだけ調理して食べるっていう風ではなくなったと思います。えぐみがあるものでもちゃんと食べる。そこに世界が私に対して働きかけようとしている何かがあるんじゃなかって。それが心の純度にも繋がってくる気もしますよね。

甘いものだけ食べてても良いはずなのに、なんでえぐみのあるものが目の前にやってくるんだろうって。もしかしたら自分が一皮むけるための何かなのかなって、それを受け止めたいと今は思っています。純度を上げるって話になると「甘いものばかり食べている方が純度が高いんです」という話もある気がするけれど、でもえぐみのある物が来ているのであれば、「なにかしらこれは調理しないといけないなぁ」っていう感覚が今はありますね。そういうタイミングなんだろうなって思えるようになりました。

 

 

 

ーある種、引き受け切るというか。そういう構えが出来つつある感じでしょうか。来たら、やるしかないんだ、みたいな(笑)

 

 

そうですね(笑)。で、せっかくならおいしく調理しようかなぁみたいな。そういう構え。そうですね、構えですね、あとは覚悟。「なんか嫌だ」とか「これは嫌い」っていう感じで割と堂々と流すことも出来ちゃう人なんですが。でもちょっと立ち止まって、うまく応じることが出来るようになるといいなぁって思えるようになれたのは、少し成長なのかな。

あわ居に行って、一ヶ月ですけれど、自分の中では大きく変わってきていると思います。それによって前の私と今の私との違いを、周りがどういう風に見ているかは、答え合わせできないのでわからないですけど。でも自分の中の納得度は上がった気がします。納得感があって進めている感じがある。まだまだ出来ていないことも沢山あると思いますけどね。

 

 

インタビュー実施日:2022年8月25日 聞き手:岩瀬崇(あわ居)