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意外性

 

 

こんにちは、あわ居の岩瀬崇です。来夏刊行予定の『あわ居-〈異〉と出遭う場所』の編集・制作を進めています。書籍では、あわ居で実施している「ことばが生まれる場所」「あわ居別棟滞在」といった各技法(コンテンツ)の写真や概要説明と共に、人類学、文学、教育学といった各分野の専門家を招いての岩瀬との対談記事、またこれまであわ居を体験された方のインタビュー記事についても掲載予定です。

 

今日の午前中も、8月にあわ居別棟にご滞在頂いた方にインタビューを実施しました。詳細は後日の記事リリースを楽しみにお待ちいただければと思いますが、私は体験者の方にインタビューをするこの時間がとても好きで、こんなに面白い仕事、至福に満ちた時間は他にないのでは?とすら思っています。

 

その面白さについてつぶさに見ていくと、そこにはいくつかの要素があるように思いますが、ここですべてに触れるのは困難です。ここではその中から、意外性について考えてみたいと思います。滞在の時間についてのインタビューをしていると、きまって「え、そんなことが起きていたの?」という話が、いつでもそこには広がるのです。これは不思議なことだと思います。

 

その方が体験したあわ居という場所、そこでの時間。そこにはいつでも私たちの知らないあわ居がいます。その方にとってのあわ居の話を聴くことで、私たちは事後的にあわ居が何であるのかを知るのです。そしてそこで知らされるあわ居は言うまでもなく毎回、違います。その人が、生身で体感したあわ居がそこにはいる。

 

先日、私たちがSNSを始めた理由について、あわ居を開業してから5年が経ち、ようやくあわ居を的確に言い表す言葉が見つかったというお話を記しました。この言葉がふと立ち現れたプロセスは、非常に複雑で、決して直線的に、その因果関係を説明できる類のものではありません。

 

しかしそのプロセスが進展した多くの要因として、あわ居体験者の方へのインタビューを重ねていく中での私たち自身の、あわ居に対する理解や認識の都度のアップデートという部分は、決して抜きにしては語れないものなのだと思っています。

 

つまり、「〈異〉と出遭う場所」という語句は、私たち自身のみから紡がれたものでは決してないのです。このあわ居という場を起点にして、ご来訪頂いた方との間に紡がれる相互作用、そしてその相互作用についてのアクティブなインタビューを繰り返す中で、またそのインタビュー内容への理解を私たち自身がその後深めていく中で、私たちも知らないどこかで段々と醸成されてきたものだと、そのような理解をすることが可能だと思います。つまり、ここから言えるのは、「〈異〉と出遭う場所」というのも、あくまで仮置きのものであり、今後の来訪者の方との相互作用の中で、いつでも書き換わっていく可能性を有しているということでしょう。

 

そして書籍をつくり、多くの方の手に届けるという作業もまた、おそらくはまだ私たちも知らないあわ居を知り、あわ居をより深く理解していくための「他者」との出会いを希求しての行為なのでしょう。未だ明かされていないあわ居の姿を見たいがゆえに、私たちは今、書籍をつくっているのかもしれません。そしてその行為は確かに生き生きとした、身体の深部から発露されている。その悦びをかみしめながら、制作・編集を進めていきたいと思っています。

 

 

あわ居 岩瀬崇