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ことばの共同体

 

 

こんにちは、あわ居の岩瀬崇です。今年の10月に『ことばの共同体』をあわ居より刊行しましたが、この背景には、今日は去年の秋から春にかけての自分自身の精神的な苦境が大きく作用しています。自分自身の場合、何か新たなモノをつくったり、何かを創造したりすることの背景には、これまで当たり前だったものを喪失したり、何かのきっかけでそれが破壊されたりする、そんな部分が少なからずあるように思います。そんな苦境の中で、みずからをひらいてくれた出来事、言葉あるいは書籍について今日はご紹介したいと思います。

 

いきなり本題に入りますが、昨年から今年の春にかけて私自身、公私ともにいろいろとあり、精神的な苦境にありました。自分自身と他者との関係性においても、またあわ居という場を営むことにおいても、どうにもこれまでのやり方を継続していくことに息苦しさや惰性を感じてしまって、モチベーションを保つことがひどく難しく、またそれに油を注ぐようにして、というよりかはもっと直接的に、今までのやり方に対しての変更を強制的に迫られ余儀なくされるような、そんな出来事が立て続けにいろいろと起こり、まぁ言ってみればそうした未知の状況の中で、どうして良いものか途方に暮れていたわけです。そんな状態は半年くらい継続して、「いやぁ、参ったなぁ」というのが正直なところでした。

 

こうした情況を経て、今またこうして前向きに生を営んでいこうという構えが出来た背景には、複雑な要因があるわけですが、やはりそこには『ことば』を通じて、自分自身の新たな枠組みといったらよいのか、自分自身が作り出したいと心から思える新たな世界といったらよいのか、そうしたものを描き直す、構築し直すという作業を地道に継続したことが大きく作用したように思います。とりわけ、去年の秋、京都で久々にお会いしたアーティストの笹口数さんや、文学研究者の阪本佳郎さんとのダイアローグ、また今年の2月に岡野春樹・早登美ご夫妻と一緒にあわ居にご来訪頂いた教育学者の永田佳之さんとのダイアローグといったものは、私にとって、未知との遭遇そのものでした。その時には、何が起きていたのかはわからなかったけれど、確かにあのダイアローグによって、何かがひらかれたことは確かだったし、今になってみて、あの時間が何であったのか、少しだけ理解できるようにもなってきました。

 

こうした「出遭い」に平行して、私は多くの書籍との対話も重ねていました。アート教育についてまとめた『モノの経験の教育学』、オープンダイアローグ関連の書籍。祈りの共同体「高森草庵」を信州に創った押田成人神父による『押田成人著作選集』全3巻。モーリスブランショの文学的な共同体についての論考。あるいはアルフォンソ・リンギス.による『何も共有していない者たちの共同体.』。その他にも、本当にいろいろな本を読みました。そしてそこから出てきた自分自身の新たな指針が「ことばの共同体をつくろう」というものだったのです。おそらくその欲求は、自分自身の中の奥底にいつでもあったものなのだと今は思います。しかしいくらかの体裁や他者からの視線を気にすること、あるいは自分自身への不信などもあいまって、それを明るみすること、それを指針にして生きることを自ら避けていたわけです。そして「ことばの共同体をつくろう」ということが明確に自分自身の潜在的な欲求として整理されたことで、また私は前向き、あらたな生を、新たなあわ居をつくっていこうと、そう思い直すことが出来ました。そしてその第一歩として、今年の10月に『ことばの共同体』をあわ居から刊行したのです。

 

 

 

信仰対象を共有することや、属性や傾向の同一性を保持することによって成立する共同体の限界が露呈している現代において、非同一性や個々のかけがえのなさを保持しながら、それでもなお私たちが分かち合うことが出来るもの。それが「ことば」なのではないかとわたしは考えています。ここでの「ことば」は、わたしたちが平常使用しているところの言葉とは、明確な差異を含むものであり、それは生命それ自体であり、言葉を超えたところでしか看取することのできない不可視の運動体のことです。本著に並べられた各エッセイは、かつての出来事の記憶を辿ったものや、あわ居での実践を通して考えてきたことなどを含めそのほとんどが書籍の制作に際して書下ろしたものとなっています。本著を通して「ことば」を分かち合う「ことばの共同体」が出来することを願いとし、一冊の書籍としました。

 

 

書籍『ことばの共同体』に記したこうした意図が、果たして成功しているのかは定かではないし、もしかしたらそれは、数年後に、数十年後に、起きることなのかもしれません。それはもう自分のあずかり知らないことだと思います。

 

一方で、こうした時間的・空間的な隔たりを介した書籍というメディアを通してだけでなく、あわ居という固定的な場所においても、「ことばの共同体」の出来(しゅったい)は可能です。いや、むしろこれまで意識することもないままに、そうした共同性は生成されていたのだと思う。しかし、それはあわ居のことを深く理解してくれる友人や知人からの口コミを介しての来訪者の方々との相互作用の中で成立しているだけで、その限界というか、それだけに甘えていた自分自身の姿を、あの精神的な苦境の時間の中で、私は直視しなければなりませんでした。そうした中で出会ったのが、安富歩さんの『ドラッカーと論語』です。その本の中で、安富さんはドラッカーを引きながら、仕事をしていく上での「自己を知る」ことの重要性を指摘しています。本当に自分の得意なこと、際立っていること、それら資質を踏まえ、社会の中で、他者に対して自分がすべきこと、つまりは使命を自覚すること。それが何よりも重要だと言います。この本を読みながら、私自身のこれまでの自己理解、あわ居への理解の乏しさを痛感しました。

 

実際、自分自身のあわ居への理解と、体験者インタビュー集を通じて描きだせる、実際にあわ居で起こっていることの間には、明らかな差異があった。私はこのことに気づいていながら、しかしその差異を埋めるために、あわ居への自己理解、あるいは自分たちがあわ居でしていることに対しての認識を改めるという作業を怠っていました。つまり「自己を知らない」状態にあったわけです。だからこそ昨年の秋~冬にかけて、あれだけ立て続けに、いろいろな出来事が起こり、問い直しを迫られたのでしょう。そんな風に今は思っています。

 

自分のことはもちろん自分だけでわからないわけで、他者からの自己を踏まえなければなりません。しかし同時に、他者からのパースペクティヴだけで、自己を規定しまうことにはひとつの危うさがあるとも思います。自己と他者の視点を常に往復させながら、自己への理解を深めていく、自己の欲求を、自己の資質を知っていく。知り直していく。そのことの重要性を実感するとともに、そこで見いだされた自己において、社会と関わっていくこと、仕事をすること、そのことを強く望んでいる自分自身を今は感じています。

 

 

 

 

あわ居 岩瀬崇