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ダイアローグと異化

 

 

先日、「雑記帖」にてAHA!の松本篤さんと、庭文庫の百瀬雄太さんと対談をしたことを記しましたが、今回、改めて対話とはなんだろうかということについて思うことがあったので少し書いてみたいと思います。

 

今回、お二人と対談をしてみて思ったのは、やはり対談後に、身体が「くわっ」と開かれた感じがするというか、ざっくり言えば、非常に爽快感がありました。それはどこに起因しているんだろうと考えた時に、おそらく一つにはパースペクティヴ(視点)の問題に接続するのだろうという気はします。

 

例えば、これはあわ居の「ことばが生まれる場所」あるいは「プロセスダイアローグ」においてもそうですけれど、対話を仕事にする際に、私自身が念頭に置いていることのひとつに、「異化」というものがあります。「異化」というのは、人類学系の書物をよく読まれる方にはなじみの深い概念だと思いますが、もともとはソ連の文学理論家であるヴィクトル・シクロフスキーによって概念化されたものだとされている。簡潔に言ってしまえば、「異化」というのは、慣れ親しんだものが、まったく奇異なものとして、新鮮なものとして捉えられてしまう、そういう現象、あるいは手法のことをさすのだと私自身は理解しています。

 

私自身は、既に制度化された手法をそのまま踏襲してあわ居での対話を実施しているわけではありませんし、あわ居は精神医療の場ではないわけですけれど、例えばフィンランド発祥のオープンダイアローグであるとか、ナラティヴセラピーなどには私自身非常に強い影響、インスパイアを受けています。ナラティヴセラピーについては、自分自身の中でドミナント(支配的)になっている世界観に対して、それに抑圧されたり、あるいは忘却されているようなオルタナティブなエピソードであったり、隠蔽されている性質などを対話的に探索し、そこに光を当て返すことで、ドミナントな世界観の中で窮屈になっていた生き方を、ほぐしていくと言う説明がざっとした所になるかと思います。

 

他方で、オープンダイアローグは、フィンランドのケロプダス病院を起点に発明された統合失調症を含む様々な精神疾患の方に対しての手法であり、日本では斎藤環さんが初めて紹介し、今や精神医療だけではなく、教育や福祉といった多領域の分野への応用についても実践、議論が進んでいます。このオープンダイアローグには「七つの原則」といったものをはじめ、いくつかの仕掛けがあるわけですが、そうした仕掛けの一つとして、「リフレクティング」があります。『リフレクティングの臨床社会学』などを記されている矢原隆行さんは、リフレクティングを「会話についての会話」としていますが、ようは簡単に言えば「AさんとBさんとCさんとDさん」でまずは話す。その後、そこで話されていた会話について、「CさんとDさん」だけで話す、それを「AさんとBさん」が聞く(あるいは聞きたくないところは聞き流す)。そこからまた「AさんとBさんとCさんとDさん」で対話をひらいていくというものです。詳細は『リフレクティング 会話についての会話という方法/矢原隆行(ナカニシヤ出版)」などがおすすめです。リフレクティングという手法が生まれた際のエピソードについての記述なども非常に躍動感にあふれたものになっており、印象的です。では、この「会話についての会話」することが、一体何になるのか。矢原隆行さんは、そこにある効果について「コンテクストに風を通す」と書いています(*1)。

 

例えばある協同的な仕事を進める際、自分の専門領域を超えて、仕事仲間に提言をしてしまったとして、「それはしゃしゃり出た行為だ」と言われることがあったとします。それは主客をきちんと切り分けその労働環境(=①)においては「しゃしゃり出た行為」になってしまうわけですけれど、でも、中動態という観点をきちっと加味し、主客を超えて「より良いものをつくっていくこと」を重視する環境(=②)であれば、それはよりよい制作のためのプロセスとみなされます。つまり、ある事象やそこで話されていることは、①という土俵の上においては、こういう意味を持つけれど、でも②という土俵の上においては、また違った意味を持つよねと。こうしたことがあるわけです。

 

同様に、対話において出てきた言葉やそこで扱われている事象について、それを扱う際の「文脈」を変えることで、そこに何かまだ明らかにされていない可能性やプロセスの進展が出てくるかもしれない。おそらくはこうしたところで生じることを「コンテクストに風を通す」と矢原さんは書いておられるのだと私自身は解釈しています。つまり、簡単に言えば、リフレクティングで「コンテクストに風を通す」ことで、ある事象に対して、これまでにはなかった解釈がそこに生じる。「AさんとBさんとCさんとDさん」での話について、それまでにはない文脈や視点から「CさんとDさん」がツッコミをいれることで、それまでの認知に良い意味での「ズレ」がもたらされる、そして閉塞感や停滞感しかなかったところに、新たな希望としての対話、状況を打破していくようなアイデアがもたらされていく、生成していく。こうした創造的な「ズレ」を生み出すことがリフレクティングの神髄なのだと私は理解しています。そしてこうしたプロセスにおいて「異化」が生じているように私には思われる。

 

そして、あわ居の対話においても、私は目の前の方と対話をし、そこにある文脈①に同期し、そこからの風景を見つつも、しかし同時にそこから離れた文脈②をいつでも探している。そして、文脈②の共有の仕方、探索の仕方については、オープンダイアローグなどとのそれとは多少異なる部分もあるけれど、あるタイミングで「会話についての会話」をしつつ、文脈②を共に探っていく。その方のそれまでの世界観に「ズレ」が生み出しつつ、創造的な対話を展開していくこと、そのことをいつでも心がけています。

 

さて、少し前置きが長くなりましたけれど、先日の松本篤さん、百瀬さんとの対談において起きたこともまさにこうしたリフレクティングをめぐる「ズレ」であったように私には思えるのです。もちろんそこにオープンダイアローグに見られるようなリフレクティングの技法が用いられていたいうことではありません。しかし、あの対話の中には、確かに私の見ているあわ居と、彼らの見ているあわ居についてのズレがありました。そして彼らの見ているそれらを聞くことの中で、私自身が未知の他者を、つまりまだいない自分を見たようにも思えるのです。オープンダイアローグについてはいろんな論じ方があると思いますし、ここで詳細を論じることはしませんけれど、私はあのオープンダイアローグの手法にある本質を「外部との接触」にあるとみています。つまり、オープンダイアローグ中に展開する対話それ自体が、外部との出遭いになると、そう思っています。

 

そうした意味で、冒頭にも申した通り、先日の対談の後で、私自身、身体が「くわっ」と開かれた感じがあったというのは、やはりそこに「ズレ」としての外部があったような気もするわけです。そして、今こうしたつたつら文字を書いているのも、彼らに「見られてしまった私」が、やっているのかもしれないなと、そんなことを思います。生成するのは面白い。自分が変わっていくのが面白い。対話の醍醐味はそこにあるとも言えるでしょうか。パースペクティヴの問題と最初に言いつつ、パースペクティヴの語がまったく出てきませんでしたけれど、そことの関連はなんとなくでも感じて頂けたのではないかと思っています。パースペクティヴと生、パースペクティヴとアイデンティティといった問題については「妄想とパースペクティヴ性 認識の監獄」や、『身体化の人類学』の中の「第14章 パースペクティヴの戯れ ― 憑依、ミメシス、身体(石井美保)」などを推します。

 

少し長くなってしまいましたけれど、まだ書きたいことはあるのです。それは対談を終えて文字おこしをして、少し冷静になった時に、やはりそこに起こっている文字の群れにすくなからずの怖ろしさというのか、畏れというのか、そういうものを感じてしまう自分がいることについてです。この対話ってどうやっていたんだろうと、私はいつでも思ってしまうのです。これはまさしく私が書作品をつくった後によく感じるところにも類似しています。これまた長くなりそうですので、また時間のある時に書こうかなと思っています。さて、今日はこれから教育学者の井谷信彦さんとの対談です。どんな展開になるのやら。

 

(*1)矢原隆行(2023)『リフレクティングの臨床社会学』p.42、青土社 

 

あわ居 岩瀬崇