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世界への信

 

 

今夏刊行予定の『あわ居-<異>と出遭う場所』の制作にあたり、AHA![人類の営みのためのアーカイブ]の松本篤さんと、庭文庫の百瀬雄太さんとの対談に続き、2月19日に教育学者の井谷信彦さんとオンラインで対談をしました。私自身、井谷さんの書かれた教育学者のボルノウについての希望をめぐる論考、あるいは臨床教育学関連の論考に何度も救われてきた背景があり、今回、対談をお引き受けくださったことに本当に感謝の気持ちで一杯です。井谷さんのお仕事については、論文「希望、この不気味なるもの」や書籍『存在論と宙吊りの教育学』を推します。

 

井谷さんとの対談の内容についてはまた後日、ご報告出来ればと思いますが、今回の井谷さんとの対談を通じても、数えきれないほどの気付きがあったので、今日はそのあたりについて、いくらか文章を書いてみたいと思います。まず何より思うのは、こうした私自身が若干恐縮してしまうというか、畏れ多いと言うか、そういう方との対談を重ねる中で、私自身が回復しているなということです。回復なのか、増幅なのかはわかりませんが、明らかに他者への信頼を取り戻している感覚がある。世界への信が獲得されている感覚がある。自分自身への信頼を取り戻している感覚がある。対談の中で、百瀬さんは自己受容と他者受容は連動してくるのではないかということをおっしゃっていましたけれど、それに近いものを私の身体は今確かに感じている。どうしてでしょうか。

 

あんまり安易な一般化や分節をしたくはありませんけれど、おそらくは松本さん、百瀬さん、井谷さん達との対談の中で、言葉が育っているからなのだと私には思われます。このあたりに関連する話は松本さんとの対談の中でも話題に出ました。松本さんはAHA!として東日本大震災を「わたし」を主語にして語り直す書籍『わたしは思い出す』を刊行されたわけですが、その書籍は、かおりさん(仮)という当事者と、松本さんの間に紡がれた言葉によって構成されています。つまり、それはかおりさんだけのプライベートな「私」の言葉ではなく、あくまで松本さんとの協働の中でうまれた「わたし」の言葉であると。そしてこの「わたし」の言葉はつまり「わたしたち」の言葉なのではないかという旨を松本さんは語っておられた。

 

おそらく私がこの一連の対談の中に感じている言葉、あるいは言葉の伸長は、松本さんの言う他者との協働の中で生まれる言葉に近いものなのだろうと思っている。つまり、あの対談の中に紡がれている言葉は確かに私自身から出ている部分もありますけれど、明らかにその二者関係の中で紡がれている。その意味で、それは「私」のそれではなく、松本さんのいうところの「わたし」の言葉である。そしてそれは、松本さんのおっしゃるように「わたしたちのことば」であるような気もするわけです。

 

そして、その「わたしたちのことば」に、私が感じているのはほかでもない、生命です。生命の流れです。その奔流の中に今まさに飲み込まれているということがありありと私には今実感されている。そしてそのことが何より心地が良い。何かに開かれている感じがする。どこかへと連れ去られているような感じがする。

 

もう少し書きましょう。先に私は信頼なる語句を使用しましたが、今回切に実感しているのは、対談

というのは、他者への信頼、もっと言えば世界への信頼がなければおよそ成立しない事象なのだということです。他者にあるいは世界に身を預けることなしに、本来のダイアローグなるものはおそらく起動しない。そして、信頼において展開される対話の行く末を、私あるいは対談者はリアルタイムで知ることが出来ません。リアルタイムで出来ることがあるのだとすれば、それは、その対話の渦の中に飲まれていること、ただそれだけなのです。おそらくはだからこそ、対談を終えた後に文字おこしをしていくことの怖さがあるのだと思う。文字おこしが面倒なのではありません。録音をしたデータをきくこと、そして文字おこしをしたファイルを前にすることの中に、私は明らかなおどろおどろしさを覚えているのです。不気味さを感じている。

 

しかし思い出してください。井谷さんのボルノウについての論考のタイトルは「希望、この不気味なるもの」でありました。となると、そこで私が感じている不気味さは、もしかしたら希望なのかもしれません。饒舌に過ぎるでしょうか。しかし今私が感じているこの世界の瑞々しさ、初々しさ、清冽さを説明しようとしたときに、他にどのような解釈が可能なのでしょう。

 

百瀬さん、松本さん、井谷さんに共通しているのは、みなさん対談中は、どこかぼーっとしているということです。浮遊している。離脱している。言葉は世界を区切るものだと言われます。言葉は世界を切り刻み、分節化すると、断片化すると、そういわれます。たしかにそうかもしれません。でも本当にそれだけでしょうか。あの対談の中で展開していた「わたしたちのことば」なるものの中では、みなさんは明らかに茫漠とした意識の中で、この世界のどこにもない場所に漂っていたのではないかと、そんなふうに私には思われるのです。そこにはある種の集中がある。でも集中というのは必ずしも限定や焦点化を意味しません。弛緩しながらの集中というものがあるのです。無文節においての言葉の展開があるのです。「わたしたちのことば」の鉱脈を探り当てる回路は、そんな特異な状態でこそ生成するのだという、そんなことが言えるのではないでしょうか。

 

さて、何についての話を書いていたのか、わたしにもまるでわかりません。しかし、一つ確かに言えるのは、私が昨年の秋に出した「ことばの共同体」で願っていたのは、まさにこうした「ことば」によって隔てられながら、しかし「ことば」によって重なり合うことの出来る、「ことば」を分かち合いが出来る、そうした共同体、共同性だったのではなかったでしょうか。「ことば」を育っていくところにこそ、自己への信頼が育っていく。他者への信頼が育っていく。ひいては世界への信が育っていく。それらは希望に他なりません。

 

来週は、畏友である文学研究者の阪本佳郎さんがあわ居に来訪され、あわ居で対談を実施します。阪本さんは、今年の三月にコトニ社より初の単著『シュテファン・バチウ ある亡命詩人の生涯と海を越えた歌』を刊行されます。それを前にしたこのタイミングで、一体どんな対談があわ居で展開されるのか、非常に楽しみです。また追って、ご報告が出来ればと思っています。

 

 

あわ居 岩瀬崇