体験者インタビュー集に「vol.22:後藤恵理香さん」を追加しました

 

こんにちは。あわ居の岩瀬崇です。表題の通り、本日あわ居ホームページ上の「体験者インタビュー集」に「vol.22 : 後藤恵理香さん」を追加しました。気づけばあわ居の「体験者インタビュー」もかなりの数になってきました。これまで体験者インタビューを重ねてきて気づかされたことがあります。インタビューでは言うまでもなく、あわ居滞在中に起きたことや印象に残った場面などについて語っていただくわけですが、しかし一方であわ居を離れてから、ご自身に生じた変化について語られることが、とても多いということです。おそらくそれはご本人にとって、あわ居の時間がなんであったのかは、その当日の出来事だけではなく、その後の在り様の変化や移ろいの中にも刻まれていることを示唆しているのではないかということを感じます。今回の後藤さんのインタビューも、その両方の要素が含まれるものになりました。

 

後藤さんは、2025年の1月にあわ居の「ことばが生まれる場所」を体験されました。自己探求のために一年半ほど滞在していたカナダから帰国し、今後の人生をどのように進めていこうか悩まれていたタイミングでのあわ居訪問。ご予約の際には、「自身が何に注力していくかを具体的に決めるような時間にしたい」という旨をお伝えくださいましたが、当日はそのような時間にはならず、むしろ当初の希望のさらに奥にあるものを探りにいくような時間になったとのことでした。後藤さんの言葉を引いてみます。

 

そもそも何かを決めたいと思っていた奥底には、実は私自身が引き受け切れていないものがあったのだと思います。それが力みになり、身体に力が入ることで、手足が動かせない状況になっていた。あわ居では、そこを丁寧にほぐしていった感じでしたね。「あぁ、私はこういうことを探求しながら生きていくんだなぁ」みたいな前向きな諦めができたというか……自分の重心が定まった感じ。構えが変わるというのかなぁ……。

 

(中略)キャリアのことで悩んでいたけれど、根本的には自分や他者の傷や痛みにどう向き合っていくのかというところなんだなぁと……私はこれまでアートセラピーとかケアとか、そういう分野に対して関心は持っていたし、ずっとそこに自分の可能性は感じていたけれど、いよいよ本格的に、その可能性の裏にある負の部分というか、自分があまり目を向けたいと思っていなかったものに向き合い、引き受けないといけないんだなぁと。これからアートセラピーや対話を仕事にして人と関わっていく時に、もうそこは避けられないものなんだなぁと。そういう構えの部分で確かな変化がありました。

 

 

これはあわ居を主宰する私自身が実感しているところですが、アートという領域はまったくきれいごとでは成立しないと思います。むしろそれは、どろどろとしたものを扱う技芸であり、極論すれば「人を傷つけるもの」であるのだと思う。だからこそ、そこでは他者のみならず、自分自身もまた同時に傷ついてしまうということが起きるわけです。ゆえに、そうした傷つきをこえて、それでもなお関わっていくことに躊躇いが生まれることは私自身、感覚的にとてもよくわかりますし、今回の後藤さんの言葉を何度かなぞりながら、「ここは自分も出来ていないなぁ」と自覚し、今の自分自身を内省し、自戒する、そんな契機を自分自身が頂いたと思っています。

 

いうなれば、後藤さんの語りを聴きながら、その語りの中で生まれている新たな後藤さんを目の当たりにしながら、私自身が「傷つけられて」しまったわけです。そこでは確かに自分自身の中に痕跡が刻まれたわけです、これまでの自分が死んでしまったわけです。その痕跡は簡単には閉じません。他者から聴いてしまったことは、ないことにはできないわけですから、自分自身の中にそれをどう位置付ければ良いのかという点については今後も継続して取り組んでいく必要があります。

 

こうなると、やはり一方的なケアとか援助とかアートなんてないなぁとあらためて思うわけです。ある人がよりその人自身になるために言葉を紡ごうとする、そこには少なからずの葛藤がある。しかしそれを超えてなお、なんとか言葉にしようとすること。それは自らを超えていく運動を生起させる行為なのだと思います。世界に連れさられつつ、これまでの自身を超え出ていこうとする行為なのだと思います。そうした葛藤の時間/空間に共に立ち、その語りの生成を見守り言葉を聴こうとするものはだからこそ、その運動に飲み込まれ、自らも傷つき、変わってしまう、生成してしまう、その可能性をいつでも顧慮しなければならない。覚悟しなければならない。語りの場とは、言葉を紡ぐとは、さらに言えばアートとは、共に超えていく時間/空間であるからです。未知にさらわれてしまうことであるからです。こうしたことへの覚悟なしに、他者の言葉の発生に、他者の生成の運動に寄り添うことはおよそ不可能なのではなかろうかと私は思うのです。そこでは「いまだ知りえていない誰か」が、それぞれに受胎されてしまうのです。見知らぬ者から眼差されてしまうのです。そこには震えがある。慄きがある。以下ではとくに印象的だった言葉、つまりは私にとって「特に痛かった」、後藤さんの言葉を引いてみたいと思います。

 

 

「なんでそんなに踏み込むの?」って聞かれるんです。「別に避ければ良いじゃん」とか「思ってることは言わずにブロックすれば良いじゃん」って。でも拒絶することは簡単なんですよね。分かり合えない人だから、その人と関わらずに生きていくっていうのは、今の時代すごく簡単にできてしまう。でも、共感できる相手とだけ共感しているのって、桃源郷というか。ある種の気持ちよさはあるのかもしれないけれど、そこに現実感はないと思います。

 

(中略)少なくとも私の周りにいる人たちとの関係性の中で、自分が批判したくなったり、糾弾したくなったりする相手が生まれた場合は、そこで自分に何が起きているのかをちゃんと見ることが必要だというサインにしています。相手のみを悪者にして糾弾すれば、そこには逆の加害性や排除が生まれる。つまり自分は被害者で正義で、相手は加害者で悪であると規定していると、結果的には自分の傷つきに無自覚なままで、加害性を棚に上げることになる。自分の中にある加害性も認め、その奥にある傷つきや大切にしたかったことに自覚的にならないと、一生被害者でいて、一生相手が悪いって他責にし続けることになる。それが必要な時もあると思いますが、そうなることを、いまの私は望んでいない。

 

 

他者を遠ざけておくことは、自らを遠ざけておくことでもあるのだと思います。逆に他者にかき乱されてしまうくらいに他者に踏み込んでいくことは、自分の傷を超えて、そのさらに奥に居る自己に近づこうとすることにもなる。つまりは自他の境界設定を問い直す契機になる。他者との衝突や葛藤を伴うような対峙の中でこそ見えてくる、それまで覆い隠してきた傷があらわになること。その傷の先にこそ、自分でも自覚できていないありのままの自身の姿や、かつて満たされなかった固有の欲求が存在するのではないか。そんなことを深く考えさせられる、自身の在り様を問い直される後藤さんの体験者インタビュー。是非じっくりとご覧いただければ幸いです。

 

 

あわ居 岩瀬崇