体験者インタビュー集

vol.4

勅使河原香苗さん /1988年生まれ

2021年11月「ことばが生まれる場所」を体験


 

ーまずは勅使河原さんにとって、あわ居での時間がどのようなものだったかお聞かせいただけますか

 

伺った時が、ちょっと迷ってる時期でした。子ども達と関わりながら、自然のことを伝えていくことに対して、私はどういうあり方が出来るのかなっていう迷いがまずありました。あとは東京で子どもに関わる仕事を会社員として担いながら、どういう形で私なりの表現と重ねて行けるんだろうとか。絵の仕事もしていたんですが、それとのつながりに関してもモヤモヤがあったり。働き方だったり、周りの方とのコミュニケーションのあり方などに関しても、違和感や迷いがある時期で。この先自分がどういう風に表現をしていくのか、表現が出来ていくのかなっていうのを自分で整理しきれない状況が続いていました。

 

そういった部分で、あわ居にちょっと委ねたかった部分があって。自分一人だと、今自分がどういう風に感じて、どういうふうに進んでいきたいかっていうのが、ぐちゃっとなってしまう状況だったんです。そこを対話しながら整理できたらいいなぁっていう気持ちがありました。あとは友人があわ居のある石徹白地区に移住を決めて、そこで暮らしを作りながら、子どもたちを受け入れ、見つめていくっていう仕事をはじめていたので。私も土地を見つけたいなと思いながらも、中々踏み切れないっていう怖さがあったりしたから。なにかきっかけになったらいいなと思って行ったんです。

 

あの時、私体調が悪かったですよね、意識が遠のくくらいに体調が(笑)。でもあわ居で対話をしていく中で、すごく大切な言葉を対話の中から拾うことができた。あわ居での対話について言えば、導いてくれているっていうよりかは、寄り添ってくれているっていう感じがあったんですね。私の話は、あまりまとまっていなくて、あっち行ったり、こっち行ったりするような感じだったと思うんですが。それに対して、「どこまでも寄り添ってくれているなぁ」っていうことを思いました。

 

例えば、一緒に過ごしている仕事仲間とかスタッフとの関係性に、少し違和感を感じているっていう話をした時に、「それはもしかすると、今いる場所やチームが単純に合っていない可能性もあるかもしれない」っていう話を崇さんがされましたよね。私は、そこに馴染まないといけないって思ってしまっていたんですが、「いや、こっちも扉あるよ」みたいな感じで開けてくれる感じがあったんです。寄り添いながら、「いやいやそれだけじゃない、こういう考え方があるよ」と。あとは本も紹介してくれましたよね。私も絵を書いたり、子ども達を自然に連れ出して行く時の関わり方として、「学校の先生はそういうこと言ってるけど、こういう生き方もあるよ」と、意識を変えていくことを大事にしているんです。そういう寄り添いをあわ居に行って、対話をする中で感じられて、楽になった感じがありました。

 

 

ー楽になった感じですか・・・

 

 

すごく記憶に残っているのが、「自分に必要ないと思ったものは、バンバン捨てて良いと思うんです」って崇さんが言ったんです。バンバン捨てて良いって(笑)。その時に美佳子さんが、「この人はこういう感じだから、それが出来るだけで、普通の人はなかなかそこまで捨て切れない。捨てるからこそ孤独になったり、色々生きづらさもあったりするからね」という話をしてくれて。その時は、美佳子さんと崇さん、両方の意見があるのが、なんかいいなと思っていました。でも、自分が「本当はこうしたい」って思ってる方向に進めないでいるのって、「孤独になりたくないなぁ」とか「わかってもらえないだろうな」って色々思ってしまうからなんですよね。だから、崇さんが言うように、「バンバン捨てていきたい」っていう気持ちが自分にもあるなぁって。ちょうど迷っている時期だったから、その話がすごく良かった。「バンバン捨てて良い」って言葉は、本当に私のお守りみたいになってて(笑)。結構ずっと毎日のように思い出していた。じゃあ私にとって何が不要なんだろうとか、何が自然なんだろうみたいなことを、ちっちゃいことでもよく考えるようになった。そういった色々なことが重なって、変化が起きたんですよね、自分の中で。

 

勿論、石徹白から戻って来てから、すぐに変化があったわけではないんです。でも今は、自分が何かしたいって思ったら、すぐにそれをするっていう状況に割となってきているんですよね。不思議なことに。自分の中で制限をかけていたものがパーンって外れた感じがする。確かに「ちょっと怖いなぁ」とか、「これで生きていけるのかなぁ」って思ったりすることもあるんですけど。それを上回る「これがやりたい」っていう事がどんどん出てきている。それを形にした時に、自分が伝えたかったことがちゃんと周りに伝わっている感触もあるし。そこに人がついてきてくれている。共感してくれる輪が広がってる感じがすごく心地良い。自分が「こうしたい」って思って作ったものに対して、集まってくる人達がすごく居心地がいい。「分かってくれる人がいるんだ」っていうことを知れたことがすごく嬉しい。だから何て言うんだろう・・・。まずその一歩踏み出せたっていうことを、あわ居でさせて貰えたのかなぁって思っています。

 

あとはあわ居で、自分のつくる世界を信じている人の話を聞けたっていうことも、強く影響を受けた部分がありますね。自分の作りたい世界が、建物や物質的なところを含めて形になっていて、そこに泊まって、直に接して。なんて言うんだろう・・・。「あ、私も表現したいな」って思えたんですよね。前だと、割と他者目線というか、「相手はこれが必要だから、これをする」みたいな感じで生きてきたところがあった。相手はこうしてもらったら嬉しいかなっていうところで動くことが自分の喜びとすり替わってしまっていた所があったんだと思います。それが最近はだんだんと自分目線になってきている。それが一番かなぁ。

 

 

ー違和感を感じるセンサーが少し変わった部分もありそうですね。

 

 

そうですね。前だと違和感を殺しているような部分があったんです。でも、「いや、これは違和感だよね」ってちゃんと気付けるようになった。あとは自由に自分が表現していったり、何か形にしていくっていう時に、どういう仲間とやった方がいいのかなという部分も含めて、自分の表現したいものが一番出せる状況を自分で作っていくっていうことが、出来るようになったんですよね。だから自分の願いは、まず理解してもらえる人に話そうって今は思っています。

 

 

ー明確に行動規範が変わったのかなぁという印象も受けます。

 

 

そうなんです。だから、ほんと不思議で・・・(笑)。なんでこんなに切り替えられたのか、わからないんですが・・・。本当に。何でだろう・・・。例えばあわ居に行く前に、「自分も土地を見つけたり、個人の活動をしていきたいけれど、金銭的な部分、経済的な部分ですごく怖いんだ」という話を友人としていたんです。それに、自分一人で活動していくってなった時に、どれくらい人が共感してくれるのかもわからないから、その怖さもあるという話もしていたくらいで。あの怖さは一体どこに行ったんだろうって思うんですよね。あ、でもあわ居で、「こういう人もいるんだなぁ」って見れたのが心強かったのはあるかもしれないです(笑)

 

・・・・・・。あ、でも今ちょっと思い出したんですけど、私、もともとちっちゃい頃から、ずっと絵を描いていたんですよ。欲求のままに、絵で表現していくのがもともと好きだったんです。絵を描いた時に、人がどう思おうと関係ない、「だって私はこう思うんだもん」っていう表現が好きだった。元々が多分そういう人間だった。今、それに気づきました(笑)。あの怖さはどこ行ったんだろうって思っていたんですけど、今の状態の方が自然なんだと思う。だから元に戻った感じもしますね。意図して自分を変えていっているわけではないのに、状況的には劇的に変わっていて。すごく生きやすくなっているんですよね。

 

自分が信じてるものを、誰になんと言われようと形にしたいんだっていう風に、あわ居のお二人はあわ居をやられていて、そういう人と出会ったっていうのが、一番自分の中ではバチッときた感じもする。そうですね、それに尽きるのかもしれない。私が鬱々と、悶々と悩んでいることって、「なんか上辺だなぁ」って。あわ居でお話しをしていてそう感じました。そんな悩みより、自分が本当はどう思ってるのかっていう所に、もうちょっとフォーカスしたいなって思えた。

 

 

ー自分の中にある、よりセンシティブな所に焦点が向くようなあり方に切り替わった部分もあるのでしょうか。

 

 

ほんと、そうだと思います・・・。そうそう、感覚が変わっていった感じがありますね。かなり細かい、繊細な自分の気持ちを拾うようになってきた。でも逆にそれがすごく心地よくて。「私、もともとそういう人だわ」って。それが自分の個性かな、っていう風にだんだん思えてきた。繊細なこと、ちっちゃいこと、そういうのが好きなんですよね。

 

 

ーもしかすると、これまでは、そういう部分をないものにしていた可能性もあるかもしれないですよね。それがあわ居での時間の中で、「あ、そこ拾っていいんだ」とか、「あ、こういうセンサーが自分の中にあるなぁ」って気づいて、ご自身の性質を取り戻したっていう風にも捉えられる気もします。自分自身の中にあったセンシティブな部分をすごく丁重に扱うようになったというか。

 

 

そうかもしれない・・・。丁重っていう言い方はすごく合ってますね。丁重に扱うようになったし、構え方が変わったからこそ、共感してくれる人も、同じような人が増えた。お互いに、小さいこと、繊細なことを拾って良いっていう認識でしているから、コミュニケーションが楽になっているし、子どもたちと接する時も、私自身が前よりゆったりしています。前は、「こういう方向に導かなきゃ」みたいなのが若干あったりしたんです。でも今は、そういうところじゃない部分というか・・・。この子の種ってどういう所なのかなっていう部分を、ただただ見る。時間はどれくらいかかってもいいから。そういうことが出来るようになってきた。繊細なものでも拾っていいんだっていう部分に対して、あわ居ですごくびっと、何かを押してもらえた感じがありますね。

 

あとは、こういう事まで話していいんだっていう所ですよね。私はもともと自己開示していくのが得意なタイプではなくて、言葉で話すのがすごく苦手なんです。でもあわ居では、とりとめがなかったり、まとまっていない話、人に言いづらい部分やプライベートな部分も含めて、全部話していいんだっていう所の驚きがありました。対話をするっていうことで、ちょっと身構えてたんですよ。私、対話できるのかなって(笑)。最初は対話しなきゃみたいなところもあったんです。でもすごく心地良かった。すごく積極的に寄り添いながら、他人の私に対して踏み込んで来てくれてるっていう感じがあって。そこには心地良いだけじゃない、気づきがたくさんあった。

 

例えば、「それってこういうことですか?」って崇さんに言われた時に、自分の中に「そういうことじゃない」っていう気持ちが出てきて、「あぁそういうことじゃないんだ」っていう自分の気持ちにふと気づいたり。積極的に「それってこういうこと?」って聞かれるから、それに対して「あぁ、そうそう」って思うこともあれば、「いやそうじゃない」って思うことがある。それを繰り返しながら、自分の中に立ち止まることが出来た。自分ひとりだと、いつもサラッと流してたことに対して、いちいち立ち止まれた。自分の気持ちとか、自分らしさが一個一個ぽこぽこ出てきた感触がありました。

 

 

ーいつもはこれくらいで済ませておくっていうレイヤーがあったとして、あわ居の対話の中で、その奥に、もうひとつのレイヤーが見えてきた。すると、そこに眠っていた自分の感情や欲求が見えてきた。そんなことが起きたのかなというそんな印象を抱きました。

 

 

そうですね。なんか、言葉を与えられなかったものに、言葉の刺激と言うか、そういうのを加えて・・・。そこがちょっと見えてきたみたいな 。

 

 

ーそこに怖さはなかったですか?自分の真実とか本心を見ることへの恐怖心というか。

 

 

うーん・・・。まぁそういうのもあって・・・。でも話してる時って、あんまり整理はついてなくて。家に帰ってきた後に、対話の時の自分の気持ちをポコポコ思い出しながら、自分一人で内省していった時に、そこでの違和感や、そこで感じたことを噛み砕いて、自分を改めて知っていた部分がありましたね。だから対話をしている時は、確かにちょっと怖いと言えば怖い。でもただ単に、自分が分かってなかった部分が見えてきて怖いだけです。「私って、何で今、崇さんの言葉に対してこう思うんだろう」っていう所をしっかり考える所までは、リアルタイムでは全然出来なくて、大体のことは、家に戻ってきた後に分かった気がしますね。

 

 

ー吟味する時間や状態をホールドできたというか。

 

 

・・・・・・。そうですね・・・。

 

 

ー今、違和感ありました?(笑)

 

 

そうですね、ちょっと今のは違和感ありましたね(笑)。でも、こういうことなんですよね、すごい嬉しいというか楽しい 。自分一人だと、こういう内省の仕方って出来ないので。「こういうことですか?」って、何度も何度も言われると、「なんかちょっと違う」とか、そういうことは自分で思えるから。で、何が違うのかって、すぐには出てこないんですけど、でもそこに目が向くようになる。

 

 

ーひとりだと黒か白かになってしまうけれど、それがあわ居での対話の中だと少しほぐされるというか。白と黒の間に、見えていなかった色があることに気付くというか・・・。

 

そうですね、それが楽しい。あの時とは私も変わってるから、次にあわ居に行ったら、私が感じる事って、どうなるのかなとも思います。今の自分を確認しに行きたいっていう部分もありますね。自分が本当に求めていることや、自分が本当にしたいことを、あわ居の力を借りて確かめに行きたい 。

 

 

ー割と今、順調というか、自分の欲求に素直になれてるみたいなことをおっしゃってましたが、それでも確かめに行きたい・・・?

 

 

そうですね。たぶん人って日々変化してるから。自分らしさっていう芯の部分はありつつも、常に流れていると思っています。今の自分って、その流れの中でゆらゆらしながらいると思うんです。そこをキャッチしに行きたい。あんまり変わらない本来の自分は取り戻しつつあって、それはそのままだと思うんですけど。ゆらゆらしながらいる自分を確かめに行きたい。こうだと自分が思っていても、それも色々動いていると思うから。リアルタイムな自分をただ見つめに行きたい 。あわ居で過ごした方がその精度が上がる、というと語弊があるかもしれませんが、でもそんな難しいことじゃないんです。単純にそれを楽しみたいだけです。「こう思ってたけど、実はこうなんだっていう」風に。アート作品を見るのと同じですよね。自分自身をもっと知っていく、今の自分をキャッチしていくのに、あわ居に行ってそれをした方が自分で考えてるより楽しい。

 

 

ー鏡のようなイメージでしょうか

 

そうそう。立ち止まりたい時とか。今みたいに調子よくても行きたいですね。すごく楽しかったんだと思います。自分を知ったというのが。私は、固定概念が壊されてくみたいな体験がすごく好きなタイプだから。それに対して怖いっていうのはなくて、むしろその体験を重ねて人生過ごしたいっていうタイプなので。それがあわ居で自分自身に対しての固定概念をぶち壊してもらったと言うか、それがすごい楽しくって。だから何か悩んでるとか調子が悪いから行くっていうよりは、本当に些細なことでもいいから、何か新しい作品とか鏡を見るみたいなことなのかもしれないですけど。こうだと思ってたけど、ちょっと違うっていう。大きいことじゃなくてもいいから、またそれを見たいっていうか。

 

 

ー自分の中にあるのに、まだ見えていないもの、あるかもしれないものが、映し出される予感があるというか・・・。

 

 

そうそう。だから一回行ったからもう終わりとかじゃなくて、なんか定期的に行きたくなるような感じがしましたね。 

 

 

 

 

インタビュー実施日:2022年5月6日 聞き手:岩瀬崇(あわ居)