vol.1

井上博斗さん/1983年生まれ

唄い手/トランス・ナヴィゲーター

 

 1983年香川県生まれ。舞台芸術と日本芸能への関心を深めるなか、2010年より岐阜県郡上を拠点に、踊り唄・祝い唄・作業唄・わらべうたの伝承活動を始める。土地と人間の関係を音楽でとらえなおす民族音楽主体の郡上八幡音楽祭(2013〜2018)を主催。。郡上の郷土史をひもとく「郡上藩江戸蔵屋敷」(2019〜)案内人。源流域で遊び、その風土や暮らしのコアシーンにいざなう「源流遊行」(2020〜)案内人。からだ・芸能・アートをひもとくトランスワーク主宰。


対談タイトル

「無に還る場所」

 

無に還る場所としてのあわ居についての考察を深めながら、生きている場を取り戻す実践としての「旅」、あるいは「生活」の可能性について探究します。

 

目次

・からっぽになる

・生きている場を取り戻す

・能動と受動、あるいは中動

・無用の用

・生活という旅へ


●からっぽになる

 

 

岩瀬:

 

まずは率直に、井上さんはあわ居という場をどのように感じていますか?

 

 

井上:

 

あわ居って中在所(*1)ですよね、かつての白山参りの古道は、石徹白の下在所というエリアから中在所を通って、白山中居神社がある上在所へ、っていうルートだった。となると、今のあわ居がある場所を通って、白山中居神社の方に向かっていたと思います。今は奥まってはないけれど、ちょっと集落のはずれ、メインルートのはずれ。際のような場所に、あわ居が位置していると思う。そうした「あいだ」に位置するエリアというものが醸している雰囲気というところで、あわ居に感じる部分がまずはひとつあります。

 

もう一つは大師堂との関連ですよね。白山中居神社が神仏分離の時代を明治に迎えた時に、虚空蔵菩薩という仏像を救出しなきゃいけなくなったと。それで神社がある上在所ではなく、中在所のとある場所に、仏像を保存する大師堂という御堂をわざわざ住民が建てた。廃仏されないように、壊されないようにしたわけです。いわば住民が自ら作った聖地。その空気感が、あの辺りにはあるわけなんですよね。あわ居っていう場所から、ちょうど川沿いに畦道を散歩するような所に、大師堂がある。言ったら、境内のそばにあわ居がある。

 

僕がいつも思うのが、あの辺の神社でもなく集落の入り口でもない、「あいだ」にある、中在所にあるって言うところの、守られてる感じがすごく面白いなって。そこをねぐらにして、その場所で何ができるんだろう、どんなことが生まれるんだろうなと考えますよね。そういった中でひとつ思うのは、ゼロポイントというか、とりあえず無になる場なのかなということ。とっても静かで、からっぽになる場所。あわ居別棟で言えば、何かそこで考えようとは思いながらも、とりあえず何も考えなくていいやっていう(笑)。そういういったんゼロになるっていうのが一番魅力的な感じがするんですよね。

 

神社っていう霊力のある場所でもなく、村の入口のような交通・交流の激しい場所でもなく、「あいだ」に位置することでその作用が生まれているのか。あわ居が場として作っている空間がそうさせるのか。明治以降に作られた二次的な聖地である大師堂があるエリアであるということが、そうさせているのか。はたまた標高七〇〇メートルというひとつの高原、高台の盆地であるということがそうさせているのか。それはわからないけれど。僕にとっては、もともと石徹白という場所自体がそういう場所、つまり無になれる場所ではあったんだけれど。あわ居がさらにそれを具体化したというか、鮮明化させたっていう気がしていますね。

 

 

 岩瀬:

 

井上さんが考える、無になることや空っぽに浸ることというのは……。

 

 

井上:

 

何て言うんだろうね、お金のための仕事や、やりたくないことをできるだけ排除して、自分の中に暇をつくるっていうことは、もしかしたら意識的にやれば誰でもできるのかもしれない。そういう意味での暇をまずは確保すること。あとはもうひとつ、オートマティックに、その場所に行ったら無を体験させられるっていう場所。その両方が大事な気がするんですよね。

 

ある程度稼いでおかなければいけないっていう、漠とした切迫感や焦燥感が、現代人には誰しもあって、暇や無が大事だっていうところがどうも実感しづらい。でもその場所に行けば、そういうものを感じられるっていうのが、あわ居なのではないかと。マインドフルネスとか、座禅とか、ぼーっとするとか、それこそ無になるとかもそうですが、なぜそれをするのかっていう部分には色んな言説があるとは思います。でも、生きるってそんなに意味づけて考えたり、感じたりするものじゃないと思うんですよね。自分で感じていくっていうところに、その醍醐味があると思っている。誰かに教えられるものじゃないっていう気持ちがある。

 

そのために、ちゃんとゼロポイントになれる場所を探して、自分で持っておかないと、あっという間に社会だったり、家族だったり、コミュニティだったりに染められていく。自分の手から取り上げられてしまう。そういう危機感がありますよね。例えば家族でいても、祖父母になにか言われるとか。コミュニティにいても、近所の人になにか言われるとか。兄弟だったら兄弟っていうひとつの意味付けの中で、自分を見失ったりとか。もちろん良い意味で影響を受けたりもするわけですけど。そういうのとは離れた、第三次的な場所を持っておくというか、そういう意味合いであわ居があるんじゃないかなと思っています。

 

 

 

●生きている場を取り戻す

 

 

 岩瀬:

 

今お話を聞いていて、閑暇という語句にも関連する話なのかなということを少し思いました。例えば現代はもちろん忙しいわけですけど、それでも例えば週に一日から二日は休みがとれたり、ゴールデンウィークの何日かは休めるといったことはあるわけですよね。哲学者の國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』では、消費社会を生きる多くの人間には、労働外の暇な時間をどう使って良いかわからない性質があって、人々はそこで退屈を感じてしまうのだと記されています。そしてそうしたある種の隙に、消費社会が目をつけて、人々は消費による記号的な気晴らしをさせられている(*2)。

 

これは自分も実感するところですが、本来の暇って、閑暇だったのではないかと思うんです。幸福のための時間。school(学校)の語源が、古代ギリシャ語のscholē(閑暇)であるのは有名な話ですが、学問に励んだり、なにか技芸の習熟に勤しんだり、それこそ無になったり。閑暇はある種の主体性や、時間の積み重ね、訓練、習熟といったものを必要とする。なにか作品と対峙するにしても、なにかを味わうにしても、なにか技芸を身に着けるにしても修練や時間の堆積が必要になる。無になることや、沈黙にいるという部分で言えば、心の奥底で感じていることや、欲求が立ち上がってくることもありますよね。それを直視するのが怖いっていう部分が、現代においては強いのかなっていう気もしています。そういう意味では、いわゆる消費的な気晴らしって受動的で楽な行為なのではないでしょうか。

 

 

井上:

 

確かにそういうところはあるかもしれないですね。忙しい人が休みたいと思っていて、いざ休みになってみると、なにをして良いかわからないみたいな。望まれた休息だったはずなのに、むしろ不安になる。なにか今日一日を楽しまないといけないという、余暇の切迫感に迫られる。それは田舎だろうが、都市だろうが関係がない。田舎においても、都市的な楽しみを休みの日にしないといけない空気のようなものを、周りで感じることもありますよね。連休だから、都市の人が遊びにいくような場所に遊びにいかなきゃといったかたちで。もちろんそれが悪いわけではないし、好みもあるとは思う。でも一方で、あまりにそちらに引っ張られると、自分が生きている場を見失うのではないかっていうことを思います。

 

例えばご飯を食べる食べないというところで言えば、本当に欲しくない時には食べない、っていう選択をちゃんとできているのか、っていうのはすごく考えますよね、誰が一日三食って決めたんだろうって。欲しくないのに、ただ口に入れているっていうことが、多々あると思う。それって、なにかをしなければいけないって焦燥感がある一方で、既にもうなにかをさせられてしまっているっていうことに、気づけていないということだと思います。そういうことに対してひとつ、あわ居という場の可能性があるんじゃないかっていうことを思いますよね。

 

  

 

 岩瀬:

 

今、印象的だった言葉で「生きている場っていうものを見失う」とありましたけど、その場っていうのは、要は自分が立脚するところですよね。物理的なところだけでもなくて、感覚的、身体的な部分も含めて。そういうものを調整したり、想起したりする場所として、あわ居が機能するんじゃないか、と。

 

 

 

井上:

 

人ってここだとほっとできる場所みたいなものを、例えば家の中、近所、あるいはもっと大きな土地の中でも持っていると思うんですよ。それはある人にとっては、犬と散歩する時間なのかもしれないし、キッチンでコーヒーを入れることなのかもしれない。その人自身も無意識レベルでやっていることだったりするから、本人も言語化できていない場合もあるとは思う。でも、それを無意識でやっているが故に、いつの間にかそれをすることを忘れていて、身体が感応しないままに、自分の動きを抑えてしまっている場合というのがあるわけですよね。それが慢性化していることもある。で、ある時に、事故が起きたりとか、なにかがクラッシュするとか、病気になるとかして、メッセージがやってくるわけです。そういうものを、違うかたちで気づかせたり、顕在化させたり、目覚めさせたりする場っていうのを個々人が奪回する必要があるのかなと思っています。

 

昔の、いわゆる自然が豊かな場所だと、自分がクラッシュする前に、自然がクラッシュしてくるから、私たちの住む場が、大水や、地震によって脅かされる。動物が住み場を荒らしてくる。そういうエラーが頻繁に起きるので、けっこう周りを警戒して見張っておかないと、簡単に脅かされちゃうっていうところが、生きものとしての人間の健康を保つのに繋がっていたと思うんですよ。ところが今それがないなかで、身体が自動調律的にほっとするとか、自分が自然とやってしまう生態的な動きとかっていうのが、起きにくくなっているんじゃないかなっていうのは思いますよね。

 

 

 岩瀬:

 

なるほど、面白いですね。環境の方が、ある種の圧力として人間に押し寄せてくるなかでは、自分自身で意識的に、自分の場所を守るっていうことの必要性や必然性があったということですね。なので、ほっとする状態や、自分が自分で居る状態って、もちろん環境という外的要因もある一方で、自分自身でそれを作っていく側面もあるんだなと思います。そこにはもしかしたら、実際に環境に手を加えて、環境に働きかけることも含まれているかもしれないですよね。そうした能動性といいますか、意識的な働きかけみたいなものが、「ほっとする」ことや、「居心地」には必要なのかなということを思います。

 

 

井上:

 

手つかずの自然とか空間って、なじまないものだと思うんですよね。なんか落ち着かないと言えばいいのかな。でも一方では、自分になじむ状態のようなものがどこかにあって、それを集団とかコミュニティとか個人が、絶えず空間とやりとりしながら、物理的、もしくは情動的に安心、安全だと思えるものを作っていくものだと思うんです。そこの草を刈るとか、ここに建具を入れるとかみたいなことも含めて。そこには色んなレベルがあると思っていて。それをすごくやりこんで、自分が思うがままのものに作り替えてしまうレベルのものもあれば、自分は手を加えず、人が作ったものを受け取っているのに、それがものすごくしっくりくるとか。そういう環境や空間とのコミュニケーションが行われることで、場所って変化したり育まれていくものだと思うんですよね。逆に、そういうものがない中で、ゼロになるとか、空になるとか、そこから触発されるみたいな場所ってあるとは思うんだけれど、それが本当に長続きするのかはわからなかったり、違う落とし穴があるような気がしないではないっていう……(笑)。

 

 

 

●能動と受動、あるいは中動

 

 

 

 岩瀬:

 

青森で「森のイスキア」という悩みや傷を負った方を受け入れる場所をひらかれていた佐藤初女さんは「私自身は人を癒しているという気持ちはまったくありません。癒しとは、自らの気づきによってこころを解放したときに得られるものだと思うのです」という言葉を残されています(*3)。さきほど、あわ居に、オートマティックにゼロポイントにいくような作用があるのではないかというお話がありましたが、例えば井上さんがあわ居別棟での滞在においてゼロポイントにいった際に、実は井上さんの中に能動していた部分があったりとか、ないしはゼロポイントにいった後に、能動した部分があったりとか、そうした要素もあったのかなという気もしています。場所に行く以上、もちろんその環境に対して受け身な部分はあるんだけれど、そこに同時に能動が働いてくるといいますか。最近は中動態(*4)という言葉も注目されていますが……。

 

 

 

井上:

 

例えば、自分があわ居別棟に滞在した時に強く感じた話でいうと、朝の光と夕方の光なんですよね。自宅にいても、東向きの家ということもあって、強烈に光を感じるんだけれども、そこにしかない朝の光とか、夕方の光があるんだっていうことだと思うんですよ。じゃあそれがどこでも感じられるかっていうと、決してそうではない。それはあわ居だから感じることのできた朝の光、夕方の光だったと思うんですよね。それによってなにか自分がゼロになったというか、素の状態になった感じがすごくした。心が洗われたような気がしたんです。その後、その光が気になって、光がさしている方向へ歩いていたら、大師堂に行きついた。そういうものを能動性と呼んでいいのなら、それはそうなんだと思う。ただ散歩をしたかったということではなく。

 

 最近自分はボディワークをしたり、個人が持ってるポテンシャルや、身体的・情緒的な深い記憶を引き出しながら、歌ったり、踊ったりするといったことを誘う仕事をしている中で、空間や場所からの兆しと、自分のおのずの動きが出会うことにトライしています。ある種の心地よさ、ゼロポイントがベースにあると同時に、そこから自分が広がる、拡張するような体験を大事にしているんです。ただこっちから思いっきり能動的にやるんだみたいなことをやっても、ちぐはぐな状態になると思うんですよね。その両方がうまく出会わないと。

 

 

 

 岩瀬:

 

となると、別棟で光を感じた時というのは、おそらくは特異な受け身の状態になっていたということですよね。それは、癒してほしいとか、消費によって穴を埋めるという意味での受け身ではなくて、余白を残した状態で、身体が居る状態といったら良いのか……わたしの身体として居られた中で、ある瞬間、光からの働きかけと、井上さんの中の余白が呼応して、ひとつの運動のようなものが立ち上がったということなのでしょうか。

 

 

 

 

井上:

 

そうだと思いますね。例えば、岩瀬さんは書道をやられてますけど、僕があるひとつの書を見て、自分が深く息をつけた、息を深くできたっていう出来事があったんです。「あ、書ってこうやって見てよいんだ」っていうような。逆にいうと、それは自分の中で息が詰まっている状態があったから、はぁって息を吐けたということなんだと思います。どんな人にも滞りや偏りや、波、緊張があって、でもそれらは時に緩むこともある。人はその繰り返しをしているんだと思うんですよね。だから、そういうものを誘ったり、おのずの動きとして引き出す場っていうのが必要とされているんだと思います。

 

 

 

 岩瀬:

 

息をつく……我に返るみたいなニュアンスもあるのでしょうか。

 

 

井上:

それもありますよね、杖をつくっていう感覚とも少し似ている。自分を支えるっていう。息をはくことで、自分が立てるというような。休んでいるんだけれど、しっかりと立てるみたいな。だから、杖をつくイメージをかりると、吐くことと立っていることへの、そういうイメージも湧きますよね。

 

 

 

 岩瀬:

 

はっとするみたいな感じもありそうですよね、さっきの光を見た瞬間というのは。

 

 

 

井上:

 

そうですね、その瞬間はそうだと思いますね。その前の段階っていうのは、ぼーっとできていたっていう感じなんですよね。なにも考えないで居ることができていた。そういう時間って、ぼーっとしているわけだから、その時には「ぼーっとしているな」とは、思っていないわけです。ふっと、「あ、なんか今までにみたことのない光だな」って意識した瞬間に、「ずっとぼーっとしてたんだなぁ」って味わったり、後からぼーっとしていたことに気づく。

 

人っていろんなことを考えているわけじゃないですか。「あー、明日これやんなきゃ」とか、「あー荷物が重い」とか。昔してしまった失敗をパッと思い出したりとか。そうやって忙しくしている中で、ふとその光に気づいた瞬間は、少なくともぼーっとしていたと思うんですよね。例えば、「あれなんの花だろう」って思える時って、その前の瞬間に、ひとつの間(ま)のようなものがあるんだと思います。逆にばーって考えてる時って、脳の中を見てるから、そういうのに気づけない。「俺ここでなにやってるんだろう」「俺どこにいるんだろう」くらいに、ぼーっとした瞬間に、変なものが見えて立ち上がってくる。風景が見えて立ち上がってくる。「あれ、なんかすっごい大きい太陽が沈んでるぞ」って。やってることや、いる場所とは別の世界がそこにあるという感覚。そういうのって、自然っていう言葉が蘇ってくる感じがしますよね。自分の中の自然が励起してくる。

 

 

 

●無用の用

 

 

岩瀬:

 

そういう時間というのはいわば無用ですよね、なにも意味がない。なんの役にもたたない。けれどもそれが、先ほどの井上さんの言葉で言えば、「生きている場」を確認する時間になったりする。

 

 

 

井上:

 

僕にとってはまさにそうで、そういう時間ってかけがえがないなっていうことですよ。コスモスという名前ではなく、「なんか揺れてるぼやっとしたそれ、なんか鮮明であるそれ」みたいな。ある種のトランスしている状態。僕にとっては、そういうのが静かな意味での、生きていることなのかなって思いますね。世界に包まれて溶け合っているみたいな、そういう静かな生きている感覚としてそれがある。一方で、お祭りとか歌うとか踊るとか激しく生きること、そういう刹那もあるとは思うんだけれど。

 

 

 

岩瀬:

 

そういう感覚や出来事が例えばあわ居であったとして、また日常の環境に戻っていきますよね。そうすると、その感覚や出来事はどうなるのでしょうか?

 

 

 

井上:

 

こういうことを語ると、詩的な表現になってしまいますが、堪能できますよね。ぼーっとして気づきがあった後っていうのは、ひたすらそれを充電するみたいに、充足を得られるわけですよ。「すごい光だったな」っていうことを、自分の中に深く深く染み込ませ続けられる。ひたすらそれについて反芻する。郡上弁で言うと、なぶっているというか、しゃぶっているということですよね。「良かったなぁ」とか「いいなぁ」っていうふうに。現代は、味わう時間っていうのが少ないと思うんですよね。

 

極端な例でいうと、動物を狩りしていた時代には、それを仕留める瞬間、その動物を追いかけてる瞬間、動物を食べる瞬間といったかたちで、味わうまでの道のりに、とても長いプロセスがあったと思うんです。そうした味わう時間が、今は圧倒的に少ないんじゃないかなって思います。気づきを得た後に、それをひたすら味わえる時間が、今はどういうふうに存在しているのかなって。

 

例えば、僕が古民家の改修をやっている時に、これを片付けなきゃいけないっていう、まあ非常に切迫した状態があるわけですよね。これをやらなければならない。次はこれだっていう計画が。でもそれが強すぎると、それを片付けたという当初の目的は果たせても、その時には喜びが全然得られない。「果たせたな」っていう安堵感しか得られない。すると、もう次の目的が迫っているわけですよね、次の課題が。もちろん、片付けられていない、散らかった部屋が汚くて自分の心を安定させることができない状態ではある。でも、味わえていないと、実は片付ける喜びが全く得られないっていうことが、頻繁に起きるわけですよね。「すごくもったいないやん」って僕は思いますね。はやく進むことや、滞りなく進むことを目指しているのはわかるんだけれど。

 

 

 

 岩瀬:

 

目の前のものと関わっていないとでも言えばよいのでしょうか。本当は目の前の環境や状況に、なにかキラリとするものがあるのに、それをないものにしてしまっている。先ほどの話で言えば、太陽の光は、いつもあるわけですよね。毎日太陽は昇り、沈んでいるわけで。でも、目の前のものや、現在にしっかりと関わる構えになっていないと、仮にそれを見たとしても、「あぁ太陽だな」という程度の処理をします。そういう次元でしか処理しない身体になってしまっている。一方、井上さんの話の中での、ぼーっとできる時間の中で光を見たときには、目の前にあるそれを、ただそれ自体として受け取ることができたという話ですよね。

 

 

井上:

 

そうですね。それであわ居は宿泊が伴う場所なわけだから、旅と関わっているじゃないですか、旅をしないと、そういうものって得られないものだったりするんですよね。それで、旅をしたが故に、それと同じようなことを日常の中でも体験し、意識することができるようになるっていうのが、旅の醍醐味だなと思いますね。

 

 

 岩瀬:

 

旅の後は同じ環境に戻るわけだけれど、同じ環境にいても、そこで関わるものや行為を違うところで享受する、捉えていくことができるんじゃないか、と。

 

  

井上:

 

僕も自分の家にお客さんを泊めることがそれなりにある中で、かつてのコミュニティや田舎が、なぜまれびとや旅人を接待し、歓迎したかっていうのが、すごくよく分かるんですね。要は、彼らが、太陽の光、月の光、空気、あるいは水ひとつとっても、こんなに美味しく、気持ちよく感じてくれるんだということを見て、逆に自分達がいかに恵まれた所にいるんだっていうことを教えてもらえるというか。自分たちの見方を更新させ、蘇らせてくれる。それをただ感じるということの、深みや美しさを取り戻させてくれる。だから、自分が旅するのも、旅人が自分の家に来るということも、実は同じことなんですよね。

 

 

 

●生活という旅へ

 

 

 

 岩瀬:

 

土井清美さんという人類学者がいらっしゃいます。彼女はスペインのサンティアゴ徒歩巡礼に参加して、それを『途上と目的地』という民族誌にまとめているのですが、その本の中で気付かされたのは、旅の中でする行為というのは、歩く、見る、食べる、話す、感じる、触るといった感じで、実は日常とさほど変わらないんだなということでした。そのうえで、サンティアゴ巡礼をはじめとするある種の旅においては、それらの行為が日常よりも深いところで味わうことが可能になるのだろうということを個人的に深く考えさせられました。そして、そうしたなかでこそ、いつも記号的に処理をしてしまっている周りの事物などに対して、日常的な習慣からはずれたところで直接的に関わることが可能になるのだろうと。旅においてのこうした直接的な経験こそが、土井氏が言うところの「誰の注釈もついていない、具体的な世界を取り戻す(*5)」ことにつながっていくのだと思います。

 

 さらにもう一つ面白かったのは、ナンシー・フレイという人類学者に、土井氏がインタビューをした時の話です。かつてサンティアゴ巡礼に参加し、民族誌を書いたナンシーは、その後、移動や自由時間があまりない、一見すると制約的にも思える生活をしています。にも関わらず、ナンシーは「今はこれでいい」と思える状態にあったと土井氏は記している。それがなぜかと言えば、制約のある生活をしつつも、だからこそ生まれてくる他者との関わりにひらかれているからだと。つまり制約があるが故に、安易な安定性にしがみつかない、流動的な生活が成立しているわけです。いわば「さすらいながら住まう(*6)」状態にあるのだと。こうしたエピソードを読みながら、「さすらいながら住まう」生活にこそ、本当の意味での人間の立脚点というのか、居場所のようなものがあるのかもしれないということを強く感じました。それは、同じ環境に居ながらも、自分自身の中にいる他者、あるいは環境に偏在している他者を発見し続ける構え方があって成立することだと思います。サンティアゴの旅を通して、ナンシーはそうしたサイクルをまわせるようになったのだろう。そんなことを強く感じました。

 

 

 

井上:

 

それ、今一番賛同する話ですね。共感する話。自分がなぜ郡上に一二年もいて、家族を持ち、それでも全く飽きないのかって言えば、それはやっぱり、ここにいながら旅をしていると思っているんですよ。例えば、妻が自宅出産するってなった時に、一ヶ月ないしは二ヶ月は仕事を休まないといけないし、むしろ休みたいなと思ったわけです。その時に、自宅の寝室で彼女がずっと寝ているという状況の中で、いったいどれだけの旅ができるんだろうと、自分に問いを立てたんですよね。畳六畳の中でも、とんでもない旅が始まるんだろうと予想していたし、それを記述したり、そこから思考したりできるなっていう予感があった。そして結果、それができたっていう感触があった。そうした旅がずっと今もこれからも続いていくという感覚があるんですよね。僕は海外はあまり行かないけれど、時々各地に赴くし、各地を旅することで、より深く自分がいる場所を旅していくことに繋がっていくんですよね。今いる場所をひたすら深めていく旅ができているなって実感が確かにある。

 

 

 

 

岩瀬:

 

日常で旅をするって、言葉としては簡単に書けてしまいますけど、意識的にそうしようとしない限りは、なかなかそうはなっていかないわけですよね。ある程度の、修練や忍耐もいると思います。ですので、日常を旅化していくための「溜め」や「構え」みたいなものを自分で作りにいく場としても、あわ居はもしかしたら機能できるのかなということを今思いましたね。

 

 

 

 

井上:

 

単純に、お金がなくて海外に行けないということがあるわけじゃないですか。でも、例えばチベットを旅する探検家の本を読んだときに、自分はチベットには行けないから、今ここの場所で旅をするしかないっていう(笑)。消去法といえばいいのかな。ここで深めるしかないんじゃないかっていう覚悟。独身であるとか、お金が有り余っているとか、誘いがあるとか、そうした非日常が味わいやすい状態や条件がない中でも、旅は可能だし、消極的な環境にいたとしても、それは起こりうることだと思うんです。自分にとっての自宅出産の旅はほんとにそうだった。二ヶ月とか三ヶ月、家から動けないが故に、そこを旅するしかないっていう。

 

 

 

 岩瀬:

 

制約の中に潜る覚悟が重要な気がしますね。この数十年、人類は移動の多い時代を生きてきたと思います。このあたりは新型コロナなども関連してくると思いますが、動かなくても旅する事のできる構え方とか身体をいま一度取り戻していくことが必要な気がするし、そうした身体を獲得する、想起することが本来の旅の意義のひとつなのかもなというふうに感じました。あわ居もそうした旅の場であれたらなというふうに思います。

 

  

 

(*1)あわ居のある石徹白地区は、「上在所」「中在所」「下在所」「西在所」に分かれている。

(*2)國分功一郎(2011)『暇と退屈の倫理学』pp.111-153、新潮社

(*3)佐藤初女(2013)『いのちの森の台所』pp.21-22、集英社

  (*4) 中動態は「する(能動)」と「される(受動)」の間にある現象を捉えようとする概念。

(*5)土井清美(2015)『途上と目的地』p.22、春風社

(*6)ウーテ・グッツォーニ(2002)『住まうこととさすらうこと』(米田美智子訳)p.125、 晃洋書房

 

対談実施日:2022年5月2日  

 

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