体験者インタビュー集

 

vol.5

江畑潤さん/1987年生まれ

2020年10月「ことばが生まれる場所」を体験


 

-もう一年半くらい前になりますが、あわ居での時間がどのようなものだったか教えてください。

 

もともと友人におすすめされて、言われるがままの来訪だったので、良い意味であわ居の場に対して、イメージしすぎていないところがありました。そういう意味でもあわ居での体験は、驚きに満ちていたように思います。何かを受け取ろうとか、サービスを受けようといった態度ではなくて、ここは自分も働きかけていく場なんだということをすごく意識したところがあって。それが面白かったし、すごく緊張したところでもありました。

 

 

-緊張・・・。ですか・・・

 

 

これは僕自身のキャラクターや性格もあるのですが、妙にサービス精神が旺盛だったり、相手が欲しがってる話題や流れを演出したがってしまう部分がちょっとあるんです。だから、あわ居は、僕が受け取るだけではなくて、対話や相互関係を通して何かが生まれる場なんだって思った瞬間に、すごく肩肘を張ったんですよ(笑)。なんとか良い時間にせねばならぬとか。仮に僕を値踏みされたときに、 ちょっとでも面白い人って思ってもらいたいなとか(笑)。そういうスイッチが入りそうになる緊張感でした。自分を大きくみせようというか。魅力的に思ってもらいたいが為に頑張る。素じゃなくて、ちょっと鎧を身に纏う感じ。こういうのは、仕事上でのプレゼンテーションの時にも自分はそうしてしまうところがあるのですが。

 

 

なるほど・・・。食事や対話の場で特に印象に残っている場面などはありますか?

 

 

当日の対話の中で特に話した話題が、即興性についてでした。例えばワークショップを例にして、ルール通りに動いたり、台本通りにやるだけではなく、想定を超える動きや即興性を持たないと、良いものにならないのではないかという話をしました。あとはサービスとホスピタリティの違いの話。 人を喜ばせることや、自分を表現するといったところの話をしている中で、徐々に、その辺りに自分が大事にしたいことが渦巻いてるんだなぁということを感じていました。

 

そうした流れの中で、みかこさんがサササッと出てきて、「さっき即興性の話をしていたから、私もアドリブで作っちゃったー」と言いながら、柿と海苔と春菊のかき揚げを出してくれたんです。「 海のもの、山のもの、果物が合わさっているし、予定にもなかったし、正直味もわからないけれど、さっきの話を聞きながら作ってみたよー」と。その料理を頂いた時に、今までの話の流れが回収されたような気がしたんです。

 

予定通りのレシピや、献立を出すだけでは、美佳子さんの中で、何かが満点じゃなかったのかなって。でも正直チャレンジングじゃないですか(笑)。食材の組み合わせもそうですし、予定にない料理を作ることも。全てにおいてチャレンジングなのに、それを怖がらずに表現してしまっている。それまで対話の中で話していたことが、「要はこういうことかもしれない」っていう形として最後に出てきて。そのことが自分にとって面白かったんですよね。「あ、こういうことか」って。実感を伴って受け取れた瞬間に、なにか面白さを感じました。

 

 

-面白さですか・・・。その部分についてもう少しお聞かせいただけますか。

 

 

・・・・・・。うーん・・・。なんだろうなあ。ニヤニヤしちゃう感じというか・・・。でもエンターテイメントという感じではなくて・・・。ちょっと待ってくださいね・・・。でもあの瞬間がすごく印象的だったのは確かなんです。なんなんだろう・・・ 。少し話がそれるかもしれませんが、まず、対話に関して言えば、何かを決め打ちして話すというよりは、良い意味で散らかしてくれましたよね。「こういう話をしたら話が深まるかも」という所にフォーカスして、その都度、崇さんはスッといろいろな話題を差し出してくれました。それが自分に合う場合もあるし、勿論合わない場合もあるんですが。だからこそ、深く深く内面に潜れるような対話になったという記憶があります。

 

その流れの中で「一番自分の出力が高くなる、やり方やスタイルを見つけたい」という話になったんですよ。美佳子さんが「私はいろいろ職を転々としてきたけれど、料理という方法が一番出力が良いのよね」ということを話してくれて。「絵を描くことには終わりがなくて、次の日にまた書き足したくなっちゃうけれど、料理って食べられたらそこで終わりだから、その潔さが私の出力に合ってると思うんだ」といった話をしてくれた。

 

そうした中で、「自分にとって、一番気持ちの良い出力の仕方って何なんだろう」という問いが、あの時自分の中に浮かんできていたんです。あとは「自分がワークショップをひらくときの、自分なりの百点の取り方って何だろう」という問いも生じていた。対話や流れの中で、そういう問いが、ポンポン出てきていたんです。そんな自分の前に、美佳子さんやあわ居なりの解答として、ひとつの仮説として、そのかき揚げが出されたように自分には思えたんですね。それが面白かった。謎が解けた感じがした。「こういう形も一つの答えとしてあるよな」って。

 

 

-かき揚げというモノを受け取りつつも、そこに何か違うものを受け取った・・・?

 

 

そうですね。自分の性格もあるけれど、頭や心がすごく回転する割に、手足が動いてない時が結構あるんです。変に哲学してしまうと言うか。すごく考えているのに、出力が良くない状態が多くなる傾向がある。そうした中で、ひとつの出力の形としてかき揚げが出てきた時に、「自分も何か表現したい」とか、「何か外に出してみたい」という感覚が芽生えたんですよね。難しく考えずに、やってみたら良いのかもしれないっていう、カジュアルさを感じた。「良い時間にせねば」とか、「相手を満足させる時間にせねばならない」とか、そういう思い込みを背負い込んで、難しく考えすぎていたところに、「気軽にやってみよう」というモードに入れた感じがあったんです。自分の今後のふるまいや行動そのものに、気楽さが生まれた感じがあった。

 

ちょうどその頃は、人間関係で色々あったりもして、モードが暗めだったんです。その問題に向き合わなければとか、抗わなければとか。そこへの意識が強かったんだけれど、少し楽になった感覚があった。憑き物がポロっと落ちた感じがあった。自分の中の満たされていないものや、根本的な部分が見えた気もします。人間関係において、その相手がどうこうっていうよりは、まずは自分を満たしてあげないとダメだよねっていう所を、お土産としてもらったなぁと。それは夜の時間だけではなく、翌朝の朝ごはんの時間も含めてですね。もっと自分を満たしてあげたい。それをしないと相手から奪われてしまう、ということをひしひしと感じました。相手側に矢印が向き過ぎて、相手を悪者にしたいと思っていたモードから、自分を満たす方向に矢印を向け直す。そうすれば結果的に、相手に向ける矢印の性質も変わるんだろうなぁと。

 

その理想型については、もともと半分は気付いていたと思うんです、でもそこが直視出来ていなかった。半分は自分が変われば解決したかもしれないことも、相手のせいにして、相手が悪いと決めつけて。自分の変えなきゃいけないところや悪い部分をあまり直視していなかった。でも対話だったり、食事だったり、一人の時間も含めて、もっと自分を満たしてあげれば大丈夫かもしれないっていう気持ちが出てきた・・・・・・。そうですね・・・。半分は気付いていたけれど、ちょっと目を背けていた所を受け入れた感じはあるのかな。自分を表現してみるとか、自分を殺さずに内側にあるものを100%出力することが出来れば、他の人にも寛容でいられるんじゃないかって。だから僕は、あの時のかき揚げのように、もっと自由に、即興性をもって「やっちゃった!」みたいなお茶目さを持って、表現したいなって思えたんです。そこが整理された気がする。

 

 

-良い意味でわたしたちが自分のペースでやっているところの作用もあったのかもしれませんね(笑)。

 

 

あわ居という空間や場に対して、二人が選んできたこと、意思決定してきたこと、逆に選ばなかったことについても色々と感じていました。ひとつひとつに意志が宿っているし、「これでいいやー」って妥協していない部分がすごく刺激的だったんです。意識が行き届いている。それを感じたのも大きかったですよね。夕食が始まったときに、崇さんが目の前に座ってお喋りをはじめるとか(笑)。「え、今?」みたいな驚きがあった(笑)。ただ、それは崇さんがそういうスタイルを望んでいるということ。食べる人からすれば、ちょっと緊張するんだけれど(笑)。あと、美佳子さんが料理を出すペースもゆっくりでしたよね、それが心地よくもあったのですが(笑)。それらいろいろを含めて、二人のぺースだったんですよ。それによって良い意味で、自分自身のペースが、かき乱されていった。ある意味、術中なんだろうけれど(笑)。空間の作り方や時間の使い方も含めて、全部が面白かった。

 

 

-興味深いですね。あわ居のペースやあわ居の基準で、その場が展開されていて、そこでは確かに普段のご自身のぺースが乱されていた。でもそこでふっと力が抜けたり、自分も表現をしてみようかなとか、自分を大事にしようかなという感覚が立ち上がってきた・・・

 

 

そうですね、それはすごくあるかもしれません。どのタイミングか分からないですが、多分対話の最中で、カッコつけようというモードもなくなっていました。良い意味で乱された。僕は沈黙がすごく苦手で、何か喋らないといけないんじゃないかって焦ってしまう。でも崇さんや美佳子さんは、沈黙も良しとしてくれた。僕にとってはそれもペースを乱してもらっていたということだと思います。「会話のキャッチボールだから、沈黙はダメだ」っていう、いつものモードじゃなくても許してもらった感じ。

 

 

ー乱されているんだけれど、乱されていないっていう風にも捉えられそうですね。

 

 

ですよね、逆ですよね。あ、今、あの場で話したことをふと思い出したんですが、テンポとリズムの話をしましたよね。テンポは時計が刻む一定間隔なもの。リズムは自分の気分や体調から織りなされる有機的なもの。僕があわ居を訪れた時は、テンポで生きているモードに入ってしまっていたと思っていて。テンポよく話したり、食事の時間もお風呂の時間もテンポよく過ごさなきゃって。テンポの視点からあわ居での体験を見れば、「いやいやこんなゆっくり、遅くまで食事するってどうなのよ(笑)」ってことになるのかもしれない。でも、リズムの視点からすれば、すごく心地の良い時間が流れていた。沈黙を許してくれたり、ことばを待ってくれる所も含めて。むしろ自然というか、良いリズムを刻めた気がする。

 

翌日の朝も、朝ごはん出てくるのがゆっくりでしたよね(笑)。話が弾んだこともあり、食べ終わった時には、予定の一時間くらいオーバーしていました。しかも食べ終えた後に時計を見たら、時計が止まっていたんですよ(笑)。「あぁ、時空の歪みはここにも現れているな」と(笑)。面白かったのは、その後もリズムを大切にしながら過ごせたことです。あわ居を出て向かった石徹白洋品店でスタッフの方と楽しく話をしていたら、一日に数本しかないバスをタイミング悪く逃してしまった。

 

けれど、「今から丁度、郡上に降りるから、乗っていきなよー」とスタッフの人が声をかけてくれて。無事、目的地に到着することが出来たんです。バスに乗れなかったおかげで、その後の予定もとんとん拍子に進んでいった。時計のテンポではなく、自分自身のリズムに乗ったら、気持ちよく一日を過ごせた感覚があった。あの時は不思議な気分だったんですよね。体内時計というのかな。なんか自分のリズムが刻めるようになったというか。自分でコントロールしようというよりは、「今来ている波に乗ろう」という気持ちで時間を過ごせた。体質がちょっとだけ変わった感じが、あわ居を去った後も残っていた気がする。

 

 

ー面白いですね、リズムで生きている時は、外から何がやってくるのかが不確定な中で、即興的に外からの働きかけに応じることが必要になる。一方でテンポで生きている場合、外への意識はあるんだけれど、どちらかと言えばあらかじめ設定した目標や動き方を、いかに効率的にできるかっていう所にフォーカスしているのかなという印象を抱きます。

 

 

確かにそうですね・・・。あわ居で過ごす時間の中で、自分のテンポが崩されて、少しずつ自分のリズムが出てきた感じがします。テンポで生きている時は、指揮者になってしまうんですよ。テンポを乱さず、ととのえていく。ズレずに進んで行くと気持ちが良いといった感じで。でもリズムで生きている時は、大きな流れの中で、波を捉えてふるまおうとか、次の一歩を踏み出そうってなっている気がします。だから、自分のリズムで生きている時は、自分中心ではなくて、目線がもう少し高くなっている。「今大きな流れがこうなってるから、こう動いたら気持ちがいいかも」みたいな感じなのかな・・・。今この瞬間の波に乗ろうっていうイメージというか・・・。

 

 

-変な言い方ですが、あわ居のペースに飲まれることで、逆にご自身のリズムが思い出された部分もあったのかなということが想像されました。

 

 

そうですね。それはとてもありますね。沈黙の時間もそうですし、ことばが発されるのを待ってくれることは、テンポを重視する生活においてはありえないですよね。テンポだったら乗り遅れちゃう。誰も待ってくれない。沈黙は許されないですから。でもあわ居には、僕のリズムを尊重してくれるような感覚があった。対話の展開の仕方も、答えを焦らせないですよね。

 

あわ居のお二人と一緒に時間を過ごすと、自分自身の体内の時間の刻み方がちょっと変わるんだろうなぁ。社会とか他人のぺースに巻き込まれて、自分のリズムが聴こえなくなった時に、思い出すのがあわ居なんだなって。僕があわ居に滞在した時に、ちょうど雨も降っていて、曇り空で、何時かわからないという感じがすごくあって。それもすごく居心地がよかった。「今、何時なんだ?」って。でも別に正しい時間を知りたいわけでもなくて。あの変な感じが大事なんだろうなぁというか。 

 

 

-そうした出来事があった中で、あわ居での時間を終えた後のことについてお話頂けますか?

 

 

あわ居を出た後、友人に会いに多治見市に行きました。あわ居を出発した後、残りの旅の工程では、出来るだけグーグルマップと、ヤフーの乗換案内、食べログは使わないって決めたんですよ。それらにすごく頼りすぎていたし、決められたルールやルートの中で、自分が安心しきってしまっていた感覚があった。それは誰かが決めたテンポに自分を合わせることだと思う。ツールに頼る一方で、自分自身のアンテナや感覚が弱っている自覚が芽生えていたんですよね。例えば食べログの点数を見ないと、不安で店に入れないとか。

 

そんな風に過ごす中で、「なんかこのお店良い気がする!」って思って入ったレストランが、大当たりだったんです。あとは、メディアコスモス(図書館)でたまたま見つけたCDショップの情報を頼りに、そのお店を訪れてみたら、店主と気があって二時間くらい話し込んでしまったり。気持ちよく話し終えて店を出たら、ちょうど新幹線に乗車する時間になっていたりもしました。そんなミラクルが続いたのがすごく気持ちよかったんですよ。あわ居を出てからも、自分のリズムや感覚を持ち続けることが出来て、その後も心地よく過ごせたっていうのが僕の旅だったんですよね。 

 

それで日常に戻っていったわけですが、正直に言えば、そのリズムで仕事が出来るかと言われると、現実問題、そうではなかった。むしろ、すごい引力でテンポの世界に戻されるから、違和感がすごくある日々を過ごすことになる。窮屈な感覚がとても強かった。ただその違和感自体が、すごく有難いことだと思っています。それまでは自分の仕事に全然窮屈を感じていなかったんですよ。むしろ「便利だし、楽だ」と思っていた。

 

でも、あわ居で自分のリズムを少し取り戻した後だと、今の環境が気持ち悪いって思えている。それが、僕の中でとても新鮮だった。仕事もそうだし、人間関係においても。テンポを重視する環境がやっぱり不自然だってことが分かってきた 。社会とか世の中は変わってないんだけれど、自分の見方や立ち方が変わったからこそ、感じる窮屈さや居心地の悪さといったものが増えたんです。増えてしまった、とも言える。それは僕にとって、働き方や生き方を考えるいい機会だったと思います。ただ、自分が仕事のテンポに合わせることが苦手になったことで、一部で仕事がしづらくなったり、うまく噛み合わなくなったところもありましたね。それは僕の中では新鮮だし、良い意味で刺激的な出来事でした (笑)。

 

 

―そうした違和感にどう対応されているのかという所にとても興味があります。

 

 

どう処理すればいいんだろうなぁって、悩んでいましたね。色々とチャレンジはしました。平日はテンポで生きて、土日はリズムで生きるといった風に切り替えてみたり。もっとアグレッシブに、ちゃんとリズムで生きるために、転職や部署移動も含めて今の仕事を見直そうとしたりとか。リズムに重心を置いた上でテンポをコントロール出来るようになろうとか。違和感や居心地の悪さといろいろ戦いました(笑)。少し別の話で言えば、もともと僕は料理が好きなんですが、それがもっと楽しくなってきた気がするんですよ。リズムで生きられる時間が料理の時間になってきたというか。そう思えたあたりから、自分のリズムで生きられる場所とか機会を確保するようにしていこうという意識が強くなった気がする。ただ、それでもテンポ多めで生きてしまっていますが(笑)

 

 

-なるほど(笑)。良い意味での葛藤が生まれた上で、そこをどう引き受けるか、どう昇華させるかっていう部分は今も模索しているということでしょうか。

 

 

そうですね、葛藤は続いています。ただ原体験として、自分の中でそれまで信じていたテンポが壊れた瞬間の感覚は覚えている。だから、「あ、今ちょっとテンポで生き過ぎている」っていう時に、それに気づいてブレーキをかけられるようになったというのはあるんです。けれど、あの時の、あわ居や岐阜で過ごしたあの時間を、東京で過ごす毎日の中で再現したいかと言えばそうでもなくて。自分にぴったりなリズムとテンポのバランスを作っていくために、あれこれと日々考えていますね。

 

あとは、僕と同じようにあわ居に滞在したことのある友人がいることが、自分の葛藤を前に進める助けになってもいます。その友人たちと、時々あわ居のことを一緒に振り返ったりするんだけれど、「あわ居のあの感じが必要だよね」みたいに、説明要らずで話が通じる(笑)。それを語れる相手がいるのがすごく有難い。仲間との共通言語としてあわ居があると言えば良いのかな。あわ居での体験を一緒に語れる友人がいるっていうことがすごくうれしい。岐阜から帰ってきて、パートナーにあわ居のことや、そこでどんなことがあったのかを話しても、あんまり響かなかったんですよ(笑)。あわ居での体験は、口では説明するのに限界があるのだと思います。一方で、さっき言ったような、あわ居で同じような体験をした友人が周りにいて、「そうそう、あれだよね」って言える共通のイメージがあることが、すごくうれしい。

 

 

ー共通して体験した時間や空間があったとして、それはたぶん完全に一致した形での体験ではないですよね。けれど、そこに分かち合えるものがある。

 

 

それぞれ、あわ居で感じたことや得たものは違うし、それぞれに持ち帰ったものがある。体験は千差万別で、全く同じ事を体験した人はいないんだけれど。でも、あの空間、あの時間って良かったよねって分かち合える、日常にもっと持っていきたいよねって。根っこは、みんな同じように感じているんじゃないかな。

 

 

インタビュー実施日:2022/5/11  聞き手:岩瀬崇(あわ居)