vol.2

岡野春樹さん/1989年生まれ

長良川カンパニー代表理事

 

ドイツ生まれ。神奈川県平塚市育ち。慶應大学SFCを卒業後、広告会社にて自治体のブランディングや、地方創生を中心とした官公庁の国内外の広報に携わる。2014年に旅する編集チーム「Deep Japan Lab」を立ち上げ、その旅の活動で出会った郡上市にほれ込み移住。現在は郡上市で家族5人で暮らしながら、都会のビジネスパーソンを源流域の世界に誘いつづけている。

 


対談タイトル

旅とナラティヴ

 

領域を横断して営まれるあわ居について、旅、ナラティヴ、身体、個性化といった語句をテーマにしながら、その魅力を縦横無尽に語り合います。

 

目次

・異なる視座から

・内省へ向かう場所

・信頼できるセンサー 

・個性化に寄り添う

・わからないという面白さ


異なる視座から

 

 

ツーリズムや旅といった観点から見たときに、岡野さんから見てあわ居はどのように映りますか?

 

 

岡野:昔にそれがあったのかはよくわかりませんが、今の時代にしっかりとした問いをもらえる旅が出来ることって少ない気がしています。問いをもらえるのが、あわ居の特徴だなぁと感じていますね。

 

 

-問い、ですか。

 

 

岡野:しっかり聞ききってくれるところがまずはあるかなと。まずは、「最近どうですか?」というざっくりした問い。これは関係値によっても違ってくるとは思いますが、まずは その人の意識が今どこにあるのかという部分に対してのオープンクエスチョンをしてくれる。訪れた人はそれに答えるわけですが、そこで出てきたことに対して、崇くんや美佳子さんが「今自分はこんな風に感じた」とか、「最近読んだ本から考えるとこういう風にも見える」とか、「その上でどう思いますか?」と話を振られる(笑) 。これはもはや問いですらないのかもしれないですが、「自分達にはこういう風に見えています」とか、「自分にはこういう風に聞こえました」っていうことを、反響してくれることが、とても大事なことである気がしています 。普通、旅をしてると、こちらが会いに行っているから、出会った先の人の話や、その土地の話を聞くことが多くなるような気がしていて。でもあわ居では、こっちが旅して、お邪魔させてもらっているのに、なぜかこちらがナラティブ(語り)をさせられる。それがあわ居の特徴だなぁと。でもそれをみんな本当は求めて旅をしているんじゃないかなとも同時に思いますね。

 

  

―自らの語りが出来ることを旅人は求めているということでしょうか?

 

 

岡野:おそらく求めているのは、自分のナラティブに対して、いつもと違う枠組みからの視座を得るということだと思います。 旅する醍醐味って、本来はそこにこそあるのではないかとすら思ってしまう。でもそれが出来る場所って、あまり他にはないなぁと。普通の旅の場合、自分に関係のない出来事や情報から、自分との相似形やヒントを自ら見出さなければいけないわけですが、あわ居の時間では崇君や美佳子さんに話をすることがそのまま、自分の内面を味わうことやヒントを見出すことに繋がる。

 

そう思うと確かに不思議ですね。あわ居のスタンスというのが、弾を自分達に持っていないような感じがしていて。たまにご自身の近況を話してくれることもありますが、基本話の弾はこちらにあるような気がする。だから、自分がちゃんと話をさせてもらってる感じがすごいしますね。ある意味、こちらに興味はあるんだけれど、でもあんまり興味はないポジションにいてくれているといえばいいのかな。本当に興味を持ってしまうと、どんどん質問をしてしまう、そういうことは旅でよく起こることだと思います。質問をする側というのは、相手の事を知りたくて質問をするんですが、そこから引き出される回答は、やっぱり説明が多くなってしまうんです。でもあわ居の場合、もう自分が分かり切っていることを説明しなくていい。本人が分かってることではなく、本人が潜在的に探索したいことを話させてもらえる時間や空間があわ居だなって思っています。

 

自分の話で言えば、例えば4歳の頃に母親と死別したという事実がある中で、それはもう自分にとっては分かりきっている情報でしかないのに、その情報に対して自分の中で起きてること以上に、相手が反応してしまうことがよくある。それを一から説明するのは自分にとってはもう面倒なことなんです。あわ居はそこに関わらないでいてくれる。だから、こちらがその時に一番探索したいところを話せる時間になりやすいんだろうなって思いますね。

 

 

 

 

内省へ向かう場所

 

 

岡野:4つの逃げ場があるのもあわ居の特徴だなと思っています。1つ目は、室内でひとりになることを許してもらいやすい。本棟にしろ別棟にしろ、どちらもそうだなぁと思いますね。崇君や美佳子さんが暮らしている割には、こちらが一人にさせてもらえるなぁと。2つ目は美佳子さんの料理。思考の所で疲れている時に、まるで違う感性のものに没頭できるということ。3つ目は周辺環境。 これは元々の石徹白地区の特徴でもありますが、余計なものがない。なかでもあわ居の立地ってのは、特に良いですよね。白山中居神社の方に行けば、また別ですが、石徹白の集落の中であれだけ落ち着いて散歩が出来るのは稀有ですね。4つ目はノイズがないこと。これには2つ意味があって、一つは圏外だったり、電波が悪いという意味。これはすごく大きいと思う。 もう1つは、あわ居の音。特別だよね、あわ居の音は。特に雪が積もっている時の別棟の音は感動しました。本棟も同様ですが、すごく静かで、音がない。それによってとても助けられますね。自分が少し音に敏感な所もありますが、でもあの音はすごい。ノイズがないとか、余白があるっていうところで、自分の内省に近づきやすいのかなと思ってます。

 

総合的に見ると、あわ居に行くことは、旅やツーリズムとは言わないような気がします。自分が今まで扱ってきたり、やってきた旅やツーリズムとは違うなあと思います。あわ居に行くということ自体が、ひとつの動詞や動名詞として確立されるなぁと。それくらいキャラや個性がたっている。旅と言うと、その旅先で会う人たちからの影響とか、一緒に旅する人からの影響みたいなところが強い気がしますが、そういうのはあわ居にはあまりないですよね。

 

 

―なるほど、あわ居は旅やツーリズムの場ではないんですね(笑)。何か近しいものは思い浮かんだりしますか?

 

 

岡野:すぐにパッとは思いつかないんですが、何かあるなぁと思っていて、、、、、。これは不思議な感覚なんですが、お世話になった人や、人生の節目節目で報告をしつつ、大事な問いをもらいに行くメンターって誰しもいる気がします、僕にとっても多分5人ぐらいいるのかな。結構な年上の人だったり、アポを取るのも申し訳ないぐらい忙しい人だったり。そういう人に会いに行った時に、起きることとしては近いような気がしますね。例えば、自分の第2の母とも言える、とあるおばちゃんがいるんですが、「春樹、まだここは甘いぞぉ」とか、「ここは確かな感じがしたよ」という言葉を投げかけてくれるんです。自分がすごくセンサーとして信じている人から言葉をかけてもらうことは大事なことですよね。ただ、あわ居の場合は、自分で話してみた後に、「やっぱ。ここがポイントなんだなぁ」と、自分の中で気づかせてもらうことが多いですね。言われて気づくのと、自分で気づかされるのと違いはあるのかもしれません。

 

あとは、メンターに会いに行く時は、次のことが始まりつつある時とか、はじまってきて順調な時を選んで、割と行くのに対して、あわ居はやっぱり一番混沌の時に行く場所である気がするから、そこの部分も違うかなぁ。でも、終わった後の、次の課題が少し明確になって帰れる感じがあるという部分は、かなり似ていますね。ただ、旅的だなぁという部分もあって、あわ居が出来たことによって石徹白が御師(おし)集落(*1)であることや、白山に登って行く前の場所、白山を遙拝する場所としての風土の意味が、ようやく現代でも価値が担保されたような気がしています。昔だと長瀧寺(*2)のあたりに宿(しゅく)があって、そこでの時間の過ごし方が、提供価値として用意されていた気がします。でも今はそれが全くない。トレッキングとしての白山登山か、白山中居神社(*3)で少し自分の時間を味わうくらいですよね。その場所に留まって、自分の移ろいを味わったり、内省するということが、本来の白山信仰であり、本来的な旅という意味ですごく大事な要素だった気がするんです。

 

 

 

信頼できるセンサー

 

 

―ちょっと避難するというか、日常でガチガチになってしまう所から距離を置くという側面も、あわ居にはあるのかなぁという気が最近はしています。

 

岡野:それはすごくありますね。ちょっとこれではまずいから、あわ居に逃げ込みに行く感じはあると思います。思考が複雑に絡み合いすぎて、解きほぐしが自分では出来なくなっている時のアプローチとして、自分の中では2つのパターンがあって、1つは身体と意識の合致状態を作りにいくパターン、2つ目が言語的に考えるパターン。特に後者が必要な時に、自分はあわ居に行きますね。水の中に飛び込んで、身体と意識の一致感覚を持てば、自動的に解きほぐれていくだろうと思う時には、あわ居にあえて行く必要はなくて、プールでぽけーっとしていればいい。でも水に飛び込んでも、解きほぐれないなぁと思ったり、なぜこの状態になっているのか自分でも解釈出来ない時や、言語的に第三者に介入して欲しい時に、自分の場合はあわ居に行きますね。

アーティストと言ってよいのかはわかりませんが、自分の本質的な欲求に忠実に生きている人だからこそ、自分の欲求や確からしさにすごく注意深く、観察し続けている、だからこそ、それを他人に当てるのがすごく上手なんだと思います。その人らしい表現性が出たときと、逆にそれが出てないのに、言葉尻では大きくなってるっていう時の、その峻別の判断が、あわ居はしっかりしてるなぁと思いますね。あわ居で、どこが確からしく見えたかを伝えてもらえると、あぁやっぱそう見えるんだなぁと思える。自分の身体感覚以外に、割と信頼できるセンサーもそう言ってるという感じ(笑)。正解がない、未来の行動や活動を考える上で、自分の感覚以外で、信じられるセンサーを持つことってなかなか出来ないと思うんですが、それを持たせてもらせてもらえるっていうのかな。

 

 

-本当は身体は感じているんだけれど、感じていないことになっていたり。

 

 

岡野:そうですね、普段の生活だと、なかなか身体感覚と言語を一致させて話すのが難しい気がしていて、むしろ切り離して話している人がほとんどだと思います。その線引きが自分の中でわからなくなっていると思うんですよね。これがいいと思うんですと言ってても、ほんとにそれを自分が良いと思っているのかすらわからなくなっている。そういう時にあわ居に行って、そうは見えないよーって言ってもらえたり、こっちの方が確からしさを感じたっていう言葉を渡してもらえるっていうのが、すごく大事なことなのではないでしょうか。

 

 

-感覚的なところで自分がどこに依拠したら良いのかが、少しクリアになる感じがあるのでしょうか。

 

 

岡野:誰しも自分の感覚を信じて生きていたいと思っていると思うんですが、あわ居では、2つの補強ロジックをもらえると思っています。1つが、自分の生き方とか表現にすごく素直にやってきた、つまり割と身体と意識の一致度が高い人から見て、もしかしたら自分よりも身体性を信頼できる人から客観的に見た意見をもらえることでの、ロジックの補強。もう1個は、哲学者でも本でもなんでも良いけれど、「それに関連する話だと、あの本の著者はこう言ってたなぁ」とか、過去の例や類似する話を提示してくれることで、自分の思ってることが整理されるっていう部分ですね。そういう補強がされることで、この先への推進力が少しつくような感じがあるのではないでしょうか。

 

 

 

個性化に寄り添う

 

 

―もともと自分たちは教育にもとても興味があるんですが、そういった要素もあわ居には感じますか?

 

岡野:その人がその人らしい方向に自分の力で伸びていく、っていう意味での教育の場としては、すごく機能してるなぁと思いますね。 自分らしく探求していく、個性化を進めていくっていうときに必要な事が、例えば4つあるとした時に、まずは身体と意識の一致感覚を持ちやすくするという部分。自分のセンサーが働くようにしておくという所ですね。 次に、いよいよ働くようになったセンサーの中で、自分の向かいたい方向を言葉にして理解する、整理するっていうところ。自分にとってのあわ居はここを手助けしてくれる場所ですね。3つ目が、外的な情報にふれてみる中で、あ、ここには自分は興味があるんだとか、心が反応してるな、っていう風に確かめたり、飛躍させていくこと。4つ目が、全然違う分野の人ではあるけれど、自分らしく探求を進めている人の、生の声、内省の声を聞かせてもらうこと。あの人が何かを学ぶときに、こうやって自分の中に問いを出していってるのかとか、ここまで反芻しながらやってるんだと知ること。

 

 

―今気づいた所で、もしかしたら、あわ居に教育的な要素があるにしても、それはすごく抽象度が高い部分に対してのものなのかなということを思いました。例えば社会の中での具体的なふるまい方とか、プロジェクトや企画を形にしていく方法を教えることは、具体的な部分の教育として分類されると思います。一方であわ居が関わっている部分というのは、そういう部分ではないんだなと。訪れた方から、「一皮剥けたらまた来ます」といったコメントを頂くことが多くて、それって何なんだろうと思っていたんのですが、灯台主というか、その進行方向であっているのか、あっていないのかを見たり、動力の純度やエネルギーの方向を見ている、そういう要素があわ居にはあるのかもしれません。

 

 

岡野:それは、自分がメンターに求めているものに近いですね。自分の身体性を大事にしようとすればするほど、それが出来る場は限られてくると思います。ここまで安心して確認しに行ける場所はなかなかないと思いますね。崇くんも美佳子さんも、自分が感じたこと以上の言葉を渡そうとしませんよね。プロとしてやります、サービスとしてやりますよという場はたくさんあるけれど、それをやっている本人の真摯さや、その人が本当に自分の道を歩けているのかという部分って、かなり透けてみえてしまいますよね。「あれ?」って、疑いが生まれることがけっこう多い。でも、あわ居の場合は、あ、ほんとにこの人たちは真摯に自分と向き合いながら、ちゃんと歩んでるなぁという印象を受ける。だから安心して自分を確認させに行かせてもらえる。それはすごいことだと思う。

 

 

 

わからないという面白さ

 

  

岡野:これからもあわ居と関わっていく上で、自分が面白さを感じているのは、自分の人間関係を、あわ居に組み込んでいくというところですね。そこにワクワクを感じています。言い方は悪いですが、誰にも教えずに、自分だけの空間としてあわ居を有難がることも出来ると思います。でも、そうではなく、知人があわ居に行ったらどうなるんだろうとか、いまこの人が行くと良いんじゃないかなと考えて、あわ居とつなげる。そういう所にワクワクを感じますね。それがどういうことなのかは、自分にもまだわからないんですが。

 

自分があわ居で問題を解決させてもらったとか、進めさせてもらったとかという部分は、もはやわかりきってる部分ですよね、いわば予定調和な部分。それはそれで機能としてあるし、そこにお金も払うわけですが、今自分があわ居に感じているわくわく感って、自分の人間関係とか自分の社会の中でピンときたものを、あわ居に投げ込んでという部分なんですよね。それが一番動的で、面白くなりそうだなって。そこが広がっていくことに面白さを感じています。かつての学校の在り方って、同級生がいて、先生との関係性があって、それが続いていった時に、どこどこの卒業生ですといった形でコミュニティがあるわけですが、そうではなくて、もう少し複雑に絡まり合った、あわ居を起点とした、時間の流れも含めた人間関係の芳醇さを生む装置に、あわ居がなると思うんですよね、そこに一番期待をしています。

 

あとは歩くという行為とあわ居が合わさると面白いのではないでしょうか。石徹白に車で乗り付けるのではなくて。あわ居に行くことが、旅ではないと先ほど言ったのは、その部分が理由である気もしますね。車で乗り付けて、過ごして、車で帰っていく行為が果たして旅なのか。少なくても自分の考える良い旅とはまた全然違うものだなぁと。身体性を伴う瞑想空間といいますか、瞑想時間のようなものを、あわ居の時間の前後に経るということが大事な気がしています。少なくとも前谷(*4)辺りから歩いてもらった後に、あわ居に到着するというコースは、機能するだろうなぁって思いますね。

 

 

 

*1)御師(おし)とは、特定の社寺に所属して、社寺への参詣者、信者の為に祈祷や案内をし、参拝・宿泊などのお世話をする神職のこと。あわ居のある石徹白集落は平安時代~鎌倉時代の白山信仰が盛んな時代には「上り千人、下り千人、宿に千人」と言われるほど、修験者の出入りで栄えた。特に、集落最奥の「上在所」では、夏季は修験者や白山参詣の道案内と宿坊の運営、冬は「御師」として各地に信仰を広め御札を配ることを生業とする人々の住むところだった。

 

*2)長瀧寺:白山開山の際に、泰澄が建立した4社の神殿のうちの一つが「白山中宮長滝寺」。明治以降は神仏分離の影響で「長滝白山神社」と「長瀧寺」に分かれた。白山の三馬場の美濃側の拠点「美濃馬場」として主に東海地方からの登拝者を受け入れた。石徹白集落から車で30分ほどに位置する。

 

 

*3)白山中居神社 https://tabitabigujo.com/appeal/hakusanshinko-faith/itoshiro/

 

*4)前谷(まえだに):白山登拝においては,前谷から桧峠を越えて石徹白(いとしろ)へと向かうルートを辿っていたとされる。

 

インタビュー実施日:2022.5.1 聞き手:岩瀬崇