体験者インタビュー集に「vol.23:Uさん」を追加しました

 

 

表題の通り、体験者インタビュー集に、「vol.23:Uさん」を追加しました。Uさんは、2025年の9月にあわ居に来訪され、あわ居別棟で2泊したのち、本棟の「ことばが生まれる場所」(1泊2日)に参加されました。これまでの会社での役割を離れることになり、今後どのようにあらたな働き方/生き方を形づくっていこうかをぼんやりと思案している、そんな移行期にあわ居にお越しいただいたなかで、あわ居別棟と「ことばが生まれる場所」、それぞれに気づきがあったとのことでした。

 

私は、このUさんのインタビューを聞きながら、またその音声を文字起こしし、編集をしながら、正直に言えば、耳が痛かった。なぜかと言えば、そこでUさんが語ってくれたものと同じものを私自身も抱えていることを、感じざるをえなかったからです。Uさんはある意味で、これまでのご自身から身を引きはがす、そのプロセスの中にいるのだと思います。これまで自身が盲目にしてきたところに真摯に目を配りながら、どのようにすればよいかわからないなかで、今ももがいている様子が話を聞きながらうかがえました。ある種の亀裂の語りです。すると、それを聞いている私自身も問われるわけです。「果たして自分はどうなのだろうか」と。その意味でも、やはり他者の語りに身をひらくことは、もう後戻りできない場所に自らが移されてしまうことでもあるのだと思います。未知に身をさらすことなのだと思います。私もUさんと同様に、これまで自分が作ってきた世界を壊しながら、また新たな世界を構築していこうとしている、そのプロセスのなかにいて、でも一方でそれは容易には進まない。けれどもそれをしないことには、生がひらかれていかない。そのことを、つまりはそのような足場が脆弱な、断崖絶壁のようなところに自身がいるのだということが、改めてUさんの語りを聞きながら、自覚されたわけです。

 

ぜひみなさん、Uさんの語りを読んでみてください。なんらかそこに全く同じではないにせよ、同じような性質や傾向を持っているのだということが、どこかで実感されるのではないかと思います。

 

少し話はそれますが、私は最近、薬物依存やアルコール依存、共依存に関する社会学的考察が記された本をいくらか読みました。するとそこでもやはり、「ここには自分がいる」と思うわけです。これまで容易に他者化し、自分とはまるで関係のない人とばかり思っていた人々のなかに、自分と同じものを見出すわけです。もちろん私は今この時点でいわゆる依存症ではなく、おそらく医学的にそのように診断されることはないと思う。けれども、やはり薬物依存やアルコール依存、共依存の方と同じような傾向を、自分は持っているなぁと紛れもなく思う。そのようなものが自分の中にあるなぁと思う。そのことがはっきりと自覚されてしまうわけです。どこからが病気で、どこからがそうでないのかわからなくなるわけです。

 

でももしかすれば、そのように感じてしまうということが、同じ時代を、この同じ社会の上を、他者と共に生きているということなのかもしれません。彼ら/彼女らが何かに依存してしまうのは、もしかしたら彼ら/彼女らが望んでしていることではなくて、彼ら/彼女らのなかにいる「社会」がしていることなのかもしれない。つまり、彼ら/彼女らは、「社会」に無防備に身を開き、適応し、そこでなんとか生き延びようとしてきた。そのなかで自覚もないままに獲得してきた傾向や習性があり、それらが彼ら/彼女らに何かに依存することを強く要求しているのかもしれない。こうした事態を私は、"彼ら/彼女らのなかにいる「社会」がしている”と書きました。そしてその「社会」が、紛れもなく私自身の中にもいるのだと思う。

 

私自身に関して言えば、こうした時に必要なことは、そのような「社会」がたしかに自身の中にいることを自覚したうえで、ではその「社会」から身を引きはがしていくにはどのようにすれば良いのかを模索することなのだと思います。格闘することです。おそらくは「社会」が変わるとは、このようなプロセスをすすめていくことなのだと思います。そのプロセスの展開それ自体が、「社会が変わる」ことなのだと思います。

 

薬物依存やアルコール依存は「意志」によっては克服されないと言われます。何よりもまずご本人が、そのように何かに強く依存してしまうことを、それを繰り返してしまうことを恥じているケースも多いとのことです。でもやめられず困っている。どうしたらいいかわからない。そうした背景や傾向を何も知らない他者が、単純な倫理や基準を用いて彼ら/彼女らを裁き糾弾するのは、何よりの暴力だと私は思います。そのような暴力をマスメディアはさんざん繰り返している。マスメディアの多くは、一方向的に画面をまなざす視点ばかりを強化しているように私には見えます。そこでは自らは問われません。薬物で逮捕される芸能人の姿を糾弾し、他者化するだけで、そこに自身の姿が映されてこないのです。本来のメディアの役割は、画面から自身が逆にまなざされてしまう出来事を生むことなのではないかと思います。そして多くのマスメディアが今なお繰り返しているそのような一方向的な暴力を、私自身もこれまでずっと繰り返してきたように思います。今なお、繰り返している。倫理や常識で他者を断罪し裁くのは簡単です。

 

でも一方でそのような「意志」によっては克服できないものを、やはり私も持っていることが最近わかってきた。そのことが自覚されると、そんなに簡単に他者を裁くことはできなくなるわけです。そこにある他者の合理性の理解に眼が向くようになる。すると、自身の行為にも合理性があってそれを他者に伝えることに対して、あるいはそこを他者にきちんと理解してもらうことに対して、そこに言葉を費やすことに対して、それほどの引け目を感じなくなる。他者も自身も同じように、なんらか傷を抱えながら生きているんだなと思えるわけです。自身も他者も、それでもなんとか生きようとしているのだなと思えるわけです。同じ社会を生きているんだなと思えるわけです。

 

おそらく私自身が、私の中にいる「社会」から身を引きはがしていくには、集合的な次元での刷新が必要なのでしょう。つまり内省とか、反省とか、ストイシズムとか、そのようなことのみでは、私はそこから身を引きはがせない。個の身体の問題ではないわけです。他者や環境との関わり合いを、まるごと刷新するなかで、気づけばそのような症状や兆候が止んで、知らぬ間に自身の中にいた「社会」が消失していることに気づかされるのではないかと思うわけです。より自身の身体に適した生活に近づけるのではないかと思うのです。その時にきっと「社会」は変わっているのです。

 

長くなりました。とにもかくにも、他者の語りは面白いなということでした(結論は単純です)。

 

 

あわ居 岩瀬崇